Hack the 連載小説空間 | PLAYGROUND
Hack履歴
- 2009年08月15日:
「普通に読む」にタブコントロール採用 - 2009年04月20日:
携帯およびiPhone/iPod touchに対応。 - 2009年04月16日:
新小説「思い出すままに」を追加。さらに「普通に読む」でフォントサイズ変更機能も追加 - 2009年03月21日:
「カットアップ手法で読む」を追加しました。詳細はこちらのブログ記事を参照のこと - 2009年03月21日:
「連載小説空間」の新記述法とフィード修正に対応。 - 2009年03月17日:
第一小説・第二小説を定期的に自動取得して順番に普通に読めるようにしました(まずは「とりあえず」)
Hacked履歴
- 「みゃ〜太」さんの関心空間にキーワード登録されました。また広がりができればサイコーですね!
いとうせいこうさんの「連載小説空間」掲載の小説を様々な方法でHackします。
「readymade by いとうせいこう」での、いとうさんの「連載小説空間を横に横に拡大していきましょう!」という言葉に反応して、「連載小説空間」の小説をHackしてみることにしました。
「連載小説空間」の更新分を自動的に読み取って、自分なりの「連載小説空間」を創ってみたいと思います。
携帯で読む 
右のQRコードからURLを読み取ってGO!
iPhone/iPod touchで読む 
iPhone/iPod touchのsafariブラウザで「http://case-k.com/itosan/」にアクセス。
普通に読む
- 我々の恋愛 1
-
1
ただいま過分な御紹介にあずかりました、デュラジア大学人間科学研究所・佐治真澄でございます。
むしろジョルダーノ先生の長年にわたる御研究こそが我々恋愛学者の導きの星であり、この盛大なうちに幕を閉じようとしております『20世紀の恋愛を振り返る十五カ国会議』の締めくくりにふさわしいと考えます。けれども、最高賞を受賞した国の代表が最終報告を担当するという、かねてからの取り決めでございます。どうか御静聴ください。
さて、涙とともにパンを食べたものでなければ人生の味はわからない、とは御存知のごとく大文豪ゲーテの言葉であります。苦渋と励ましに満ちたこの言葉の主こそ、これまた言うまでもなく恋多き人物でございました。
であるならば、皆さん、先に挙げた格言を我々はこう言い換えてよいのではないでしょうか? 恋愛とともにパンを食べたものでなければ人生の味はわからない、と。
……拍手、おそれいります。事実我々は、会期初日の7月12日夜、山梨県民文化ホール内で行われましたレセプションパーティの席上、トルコ芸術音楽大学名誉教授・ユルマズ博士から、会議の名前自体を『20世紀を振り返る十五カ国会議』と短く変えてしかるべきではないか、との御意見もいただいたのです。
それでは若干ぼんやりとした会議にならないかと危惧を示した我々に対して、ユルマズ博士が悠揚迫らず答えられたお言葉は大変印象的でありました。
恋愛を振り返ることは、そのまま世界を振り返ることだ。
ユルマズ博士はそうおっしゃったのです。
会議の名こそ変わりませんでしたが、博士、まさしく我々は7日間をかけて、20世紀を総括したのであります。20世紀の歴史を、人間を、言葉を、仕草を、そして何より性そのものを。
博士にどうぞ大きな拍手を……博士、お座り下さい。博士。
それでは、お配りしたレジュメにしたがって、きわめて簡潔に、今回『20世紀の恋愛を振り返る十五カ国会議』において、最高賞を獲得した日本の恋愛事例をおさらいしたいと思います。
まず、一人の男がおりました。
- 我々の恋愛 2
-
2
『ヤマナシ・レポート』
カシム・ユルマズ
(トルコ芸術音楽大学)
2001年7月15日付け
「イスタンブール読書新聞」より
人生は旅である、と私は言いたくない。言ったところで何になるわけでもない常套句の、これこそ筆頭に挙げられるだろう。
人生に旅券は必要ない。旅行鞄がなぞらえられるような対象は、特に人生には見当たらない。人生に終わりは絶対あるが、旅が必ず終わるとは限らない。
人生は人生である。旅はただ旅である。だからこそ、両者は互いを豊かにするのだ。
私は今、日本に来ている。訪れるのはこれで二度目だ。
一度目は、第二次世界大戦の終戦から六年ほど経ってのことであった。私は大学院に籍を置きながら、神戸で二年間、父の仕事を手伝った。私はわずか二十才に過ぎなかった。自分の詩はまだ数えるほどしかなかった。
思えば、当時の私は何も見ていなかった。何も聴いていなかった。日本は日本でなく、ただの異国だった。憧れは個別性の外にあった。
今、ヤマナシという日本列島の中央部近くにいて、私は世界十五カ国の学者・有識者と論議を重ねている。前世紀を最もよく象徴する恋愛とはどのようなものであるかについて話し合いながら、我々はあたかもその恋に直接触れるかのように物語の輪郭をなぞり、恋を舌の上にのせて吟味し、血管の中に流し込んで共に生きている。
イギリスの作家、アーロン・エメットが採集してきた“自分が蟻であると思い込んでいる男と、自分が枯れた樹木だと思い込んでいる女の恋愛”は我々を驚愕させた。
サウジアラビアの財閥系研究機関で人間の行動パターンを数量分析しているハレド・オハイフは、“別れても別れても必ず三日以内に偶然出会ってしまう二人の奇跡の六十年間”という詳細なレポートを実験映像付きで提出し、パリ第8大学きっての無神論者(そう、エミールのことだ!)にも神の存在を再考させた。
このように充実した時間を過ごしながら、私はひとつの確かな考えに支配される時の、あの希有な満足感を得つつある。
人生が旅だとは言えない。
だが、人生は恋愛のようだとは言える。
どちらも時に熱狂的で、現実とはうらはらで、二度と訪れないチャンスの糸で縫い合わされているのだ。
再びの日本滞在で、私はそれを知った。
もう遅い、とあなたは言うだろうか?
たった一人しかいないあなたは。
私の読者よ。
- 我々の恋愛 3-1
-
3
『BLIND』
男は不思議な夕焼けの夢を見た、と言っている。
行ったこともない南の島の、長く白い砂浜に男は素足で立っていた。
濃いオレンジに溶けた太陽はすでに左手の岬を覆う黒い山の向こうに沈みきっており、残光だけが薄く残る山頂付近以外、空は藍色に染まっていた。
やがて、夜の始まりを告げるかのように、背後からコーランがエコーたっぷりに鳴り響いた。そこがイスラム教圏内であることを、男は知っていたと思った。
次の瞬間、立ちくらみのように視界が狭まった。不安に襲われて男は何度かまばたきをした、と言う。すると、暗くなっていくと思われたあたり一面が、みるみる茜色に変わっていくのがわかって、男の胸はつまった。
たちまち、あらゆるものが茜色になった。見渡す限りの空が茜色であり、吸う空気も吐く空気も茜色だった。砂がどこまでも茜色だったし、波のしぶきも、ビーチを走る馬の汗ばんだ皮膚も茜色だった。
そうだ、ほんとうの夕焼けとはこういうものだと男は思った。すっかり終わったかに見えたあと、夕焼けは復活のようにやって来て、太陽のない世界を茜色に染め変えてしまう。
圧倒的な幸福感があった。茜色の光が、波動になって体中の細胞を震わせている気がした。茜色は男の体を自由に出入りした。
1994年3月10日早朝、目が覚めたあとも同じ幸福感がまったく途切れなかった、と華島徹(仮名)は言っている。それほど影響力のある夢を、華島はかつて見たことがなかったそうだ。
前夜からの雨がサッシを細かく叩く音は、確かに波が引く音に少し似ていただろう、と我々は想像する。したがって、華島の住むアパートの二階はいまだ夢の中の海に近かったのかもしれない。
予感といえば予感でした、とは華島徹の言葉だが、むろんこれは事態が深まったあとでそう思っただけであり、恋愛はこうしてすべての物事を、遠い過去に至るまで「当事者二人」の運命の中に整列させてやまない。
以後も、この思考は華島を強く捉えるし、我々はそれを逐一報告するだろう。
なぜなら、無意味な事象の偶然的積み重ねに過ぎない人生を、一気に意味づけ、一気に色鮮やかにするのはわずかに恋愛と宗教くらいのものであり、後者の場合が“すべての物事を、遠い過去に至るまで「神と自分」の運命の中に整列させてやまない”のである以上、我々は恋愛研究において神を扱うも同然だからである。そして、御存知のように、神は細部に宿るのだ。
ともかく、1994年3月10日木曜日、華島徹は帰宅後に起こる予期せぬ出来事には実際はまったく盲目なまま、顔を洗い歯を磨き背広に着替え、しかし夢の残照とも言える茜色の幸福感にはなお満たされつつ、入社一年目の職場「あらはばきランド」へと向かったのだった。
- 我々の恋愛 3-2
-
3-2
『BLIND』-2
コーポ萱松203号室から東亀沢駅までは大人の足で歩いて15分ほど。そこから急行で七つ進めば、目的地「あらはばきランド」駅である。したがって、華島が出勤にかける時間は多く見積もっても45分で済んだ。
70年代後半に出来た大型遊園地「あらはばきランド」には、当時、23個のアトラクションが存在した、と記録されている。大観覧車、ふたつの大人用ジェットコースター(ひとつは室内型)とひとつの子供用ジェットコースター、垂直落下するゴンドラ、メインキャラクターあらはばきちゃんの赤い人形が運転士を務める三両の小さな汽車、白馬だらけのメリーゴーランド、各種の錯覚を利用したいわゆるビックリハウス、昆虫(主にカブトムシ)を模した椅子がついた空中ブランコなど、ほとんどが王道と言えるアトラクションの中、唯一「レイン・レイン」が異彩を放っていたというのがもっぱらの評判で、それがまさに華島の担当だった。
「レイン・レイン」は虹色に塗られたドームで、入場者は全員透明なビニール傘と、これまた透明な合羽を渡されて中に入った。アトラクション内には雨が降っており、それが奥へ奥へと歩いていくうちに激しさを増した。日本的な梅雨から大陸的な豪雨、ロンドンのしとしと雨とアラスカのみぞれ、ついには熱帯雨林の耳をつんざくような雷までを体験し終えれば、入場者は晴れ上がる空(疑似)の下、出口へと導かれる。
こんな独創的なアトラクションは世界に類を見ないと評価する者と、雨の日に入った時のつまらなさを強調する者、そもそも冬には館内が寒過ぎるという主に高齢者の指摘や、逆に夏の自然な涼しさを言う者など、「レイン・レイン」には常に毀誉褒貶があった。
華島はと言えば、そのどちらでもなかったと我々は聞いている。地方の大学を出て「あらはばきランド」に就職をした華島は、与えられた仕事をとにかく丁寧に覚えた。好き嫌いを仕事に持ち込むべきではない、というのが華島の考えだった。
研修期間中、人事課に連れられてディズニーランドを視察したおりにも、同期五人が各種アトラクションに興じている間、華島だけがしばらくの間、スタッフのあとをつけ続けた。ゴミ発見の秘訣が知りたかったのだそうだ。それは華島の同期にとって、華島という人間を最もよく示すエピソードらしく、全員で会う機会があるごとにその話を華島にした。
- 我々の恋愛 3-3
-
3-3
『BLIND』-3
だが、華島の父によると、職を得る前までの華島は違った。幼い頃から、何事に対しても集中出来ずにぼんやりしているというのが華島要(徹の父)の息子観で、長年小学校の国語教諭を務めている立場からも、その観察に間違いはないと要は確信していた。
むしろ執着という醜いものを故意に身につけるぐらいが妥当ではないかと、徹が小学校高学年になった1981年5月17日午後、父親は息子の部屋にあったありとあらゆる物(家具以外)を物置に隠そうとした。帰宅した徹が号泣してくれることを要は熱望した。作業にとりかかって五分ほどで耳慣れぬ物音をいぶかしんだ妻・俊子に見つかり、その激しい抗議によって目論見は中止されたものの、要はそれくらいショッキングな“事件”が徹の人生に起こるべきだ、と真剣に考えていた。
俊子(旧姓・幅田)は要のかつての教え子だった。石川県金沢市立味ケ岡小学校で俊子が六年生の時、要は担任を務めたのである。私立中学に提出する内申書に「幅田さんの正義感はクラス一」と要は書いた。その事実を俊子が知ったのは、十年後、地元の短大を卒業して司書の資格を取り、親戚のつてを頼って公立図書館に勤めてからのことだった。授業の資料を集めに来た華島要を、俊子はすぐに認識した。だが、話しかけてみると、要は俊子をすぐには思い出さなかった。
ほら、理科実験部の、と俊子は誘い水を与えた。
高桑さん?と要は言った。
違います、ええと、交換留学生のルイーズさんを一ヶ月間、家まで送り迎えしていた……。
あ、和泉さん。
いえ、和泉さんじゃありません。
侮蔑されたような気持になった俊子の、半ばうるみかかった目の端で、一人の初老の女性がつまずいた。若い男が椅子に浅く座って足を机とは正反対の方向に伸ばしていた。その男の右足に、女性の左足がぶつかったのだった。黄色い装丁のドイツ語の本を大事そうに抱えた白髪の女性は軽く頭を下げた。園芸雑誌を開いていた男は舌打ちをした。
途端に、俊子は俊敏な野生動物のように小さく飛び上がり、大股で五歩ほど行って若い男の背後に立った。そこから先は書くまでもないだろう。
幅田さん、もう彼も謝っていることですし、と華島要は数分後、ささやき声で俊子に話しかけたのである。
- 我々の恋愛 3-4
-
3-4
『BLIND』-4
なだめる者は、相手の感情の起伏にぴったりと寄り添いながらそれを完全に統御しようと最大限の力を注ぎ、しかも事を成功裡に終わらせるまでにたいていは複数回の失敗を余儀なくされて傷つく。したがって俊子をなだめ終えた要は、すでにその短い時間の中で、ひとつの恋のプロセスを経験していたと言える。
二年後、二人は結婚した。
世界では同時革命が叫ばれていた。
徹が生まれるのはさらに一年後、1971年のことだった。
臨月になってもなお、俊子は金沢市内の街頭デモに参加した。やがて日本を代表する国際空港となるナリタではその年の2月22日、第一次強制代執行が始まった。延べ2万人の警官が、土地収用に反対する延べ2万人の地元農民や学生と衝突した。農民の中には立ち木に自らをくくりつけて抵抗する者もあった。俊子は代執行に反対しなければ筋が通らないと言った。要は筋そのものがのみ込めなかった。
仕事に対する徹の真面目さは、この母から来ている、と言ってよい。そして父・要は最初に図書館で俊子に気づかなかったように、徹の中に厳然としてある岩めいた頑固さに気づかなかった。何事に対しても集中出来ずにぼんやりしている、という息子観はそのまま要自身にこそ当てはまった。
だが、徹はただ母だけに似ていたのではない。「あらはばきランド」で徹が最も深く慕っていた上司、ここでは仮に園田吉郎(きちろう)としておくが、この園田の性格や風貌が父・要に大変よく似ていた。けれど、徹はその誰にとっても明らかな事実に気づかなかった。まるで父のように。
奇妙なことに、この父によく似た男・園田吉郎(45歳)こそが、徹が恋に落ちるきっかけを、本人もそうとは知らぬまますでに作り出していたのであった。
園田はまた、「レイン・レイン」を作った人物でもあった。
- 我々の恋愛 3-5
-
3-5
『BLIND』-5
1994年3月10日、華島徹が「あらはばきランド駅」で銀色に赤い線が一本だけ太く入った私鉄電車の先頭車輌を降り、そこから現実の小雨の中、徒歩10分をかけて坂を登り下りして「あらはばきランド」運営本部に到着したのが午前8時32分。それはタイムカードにはっきりと記録されている。
傘をさして歩いたにもかかわらず、普段より数分早かったのは、その日の気温が前日よりぐっと下がったからだろうと本人は話している。寒さが足を速めさせた、というのだ。
事実、ロッカールームで緑色のつなぎに着替える時(胸には「レインレイン 華島」とベージュの糸で刺繍があった)、徹はいったんランニングシャツのままで汗が引くのを待った。その徹に背後から声をかけた者がいた。
「マワッテルダロ?」
一瞬、誰が誰に問いかけているのかさえ徹にはわからなかったので、そのままの姿勢でいた。すると、声は繰り返した。
「マワッテ……」
途中で園田吉郎の声だと気づき、徹は苦笑しながら振り向いたという。そのように唐突な話し方をするのは園田の特徴だった。話題の導入部を平気で削ってしまい、核心しか口に出さない。
ちなみにこのとき、背の低い園田(すでに緑のつなぎ着用済み)の頭部がいくぶん白く煙っているように見えたと華島徹は言い、それは毛髪の薄い頭頂部が化学反応を起しているかのようだったとも真剣に強調するのだが、理由はいまだにわからない。少なくとも我々は、園田が運命を透視する能力を持っていたという前提には立たないし、ましてや園田の頭頂部がその能力の受け皿であったとも思わない。
ともかく園田は、本部の企画係が飼い始めたハムスターのケージの回し車のことを言っていたのだった。その年、日本に輸入されたばかりのロボロフスキーという体の小さな種を、犀川奈美という中年女性がいち早く入手し、数日前からケージごと社内に持ち込んでいた。この動物は必ずアトラクション化出来る、と犀川奈美は考えており、その研究を各部署で横断的に行うべきだと主張したのだ。
しかし、我々が問題にしている日の前日、それまでさかんに回し車を回していたハムスターの様子が変わった。回し車に乗るには乗るのだが、ハムスター(この頃には「ベン」と呼ばれていた)はじっとうずくまり、ピンク色の鼻だけをひくつかせた。犀川はケージのそばにつきっきりになり、通りかかるあちこちの部署の人間をつかまえては、ベンが回らない、ベンがおかしいと言った。
園田はその変化が、ちょっとした不調をきっかけとしており(おそらく便秘か何かだろうと指摘し、園田は“確かにベンがおかしかったのだ”という洒落を何度も反復して、その度ひとりで笑ったそうだ)、あとは犀川奈美自身のヒステリックな大声によるものだと陰で徹に言った。小動物がおびえているだけなのだ、と。
というわけで、マワッテルダロ?という言葉は、犀川奈美が前日の午後、心労で早退したことを暗に指していた。そして事実、ハムスターは犀川の早退後、元のように元気よく回った。
しかし、のちにわかることだが、この園田の言葉が発されたと思われる午前8時46分、華島徹のアパートの部屋で留守番電話が第一回目の作動を始めていた。
はい、華島徹です。ただ今留守にしています。ピーッという音のあとにお名前とご用件と連絡先を吹き込んで下さい。と、まさにテープは“”回って”いたのである。
これこそ遠野美和が初めて聞いた華島徹の声であり、そこから恋愛のすべてが始まったのだった。
- 我々の恋愛 4-1
-
4-1
『親愛なるカシムへ』
2001年7月22日消印
島橋百合子さんからの書簡1-1
(本人許諾により発表)
神戸に寄ってくださるとは、夢にも思っていませんでした。いえ、貴方が生きていることさえ、私は忘れていたのです。残酷だ、と貴方はあの夜と変わらぬ言葉をつぶやくでしょうか。
私たちが同じ時間の中でとまどっていたあの頃、神戸にはまだ戦争の爪痕が点々と残っていました。私もまた、そのひとつだったかもしれません。父の庇護下で生活には困らなかったけれど、確かに私は敗戦国の娘で、十七年かけて覚えた人生の習慣をほぼすべてかなぐり捨てている最中だったのですから。
けれど、カシム、貴方だけは無傷でした。貴方の魂それ自体、何も傷ついておらず、またそれが私をさげすんでもいないことが私をどれだけ救ったことか。
港の揚げ荷を見るのが、私たちのお気に入りだったことを覚えていますか。月曜日と水曜日の午後、坂の上の教会で貴方に英語を半時間教わってから、狭い三叉路を歩いて港に出たものでした。錆の塊のような大きな船の横腹に荷がぶら下がるのを、私も貴方も飽きずに眺めていた。
望郷が浮かんでいる、と貴方は何度か言いました。いつだったか、私にとっては解放だと言うと、貴方はようやく私を見た。その時の貴方の、形のよい眉の下の緑色の右目をはっきり覚えています。ただし、やがてまとまる貴方の処女詩集には、揚げ荷と望郷のテーマのみが出現して光輝き、解放の象徴として船腹にぶら下がる荷も、むろん貴方の緑色の右目も出ては来ないのだけれど。
貴方が来た年、GHQは神戸港の占領を終えました。私にとってはその巡り合わせだけですでに、貴方が神秘でした。貴方が茶の湯を見たいと言い、華道や連歌に興味を持って私の師匠の会に出席し、私をユリコと呼ばず、「神秘嬢(miss mystique)」と言葉遊びのようなあだ名をつけてからかい出した時、私は貴方の色違いの目こそが神秘だし、同じ頭韻ならユリコ・ユルマズの方がよほど上等だ、と何度言いたかったことか。
貴方の伴侶になる想像を、私は音の響きから偶然得たと当時、思っていました。若い私はまだ、恋の仕組みを知らなかったのです。
- 我々の恋愛 5-1
-
5-1
人に知られりゃ浮名も立つが
知られないのも惜しい仲
日本近代・明治期の都々逸より
- 我々の恋愛 6-1
-
『BLIND』-6
遠野美和はもちろん仮名だが、その名前が日本の古代史の集約された土地、ナラの神聖な山々からとられていることは、事実と変わりない。このレポートの中で美和の姉を香(かおり)と呼ぶのも、同じ理由からである。我々は名付けにあたって三輪山と香具山(後者の名の中にある「カ」という音節は、「香り」をあらわす表意文字で示されている)を選んだが、彼女らの父、まさにそのナラで日本の敗戦日1945年8月15日の正午過ぎに生まれた遠野太一は(したがってこの人物こそ、日本の戦後そのものだと言える)、さてどうであったろう。
そもそも、なぜ太一はそこまで故郷の、しかも山に思い入れたのか。もし山に思い入れがなかったのだとしても、すでに他県で数年生活していた太一が、なぜ遠く離れたナラの山々と自分の娘の名に関係を持たせようとしたのか。妻である壮子にも、実はきちんとした説明がなかったのだという。
遠野美和が生まれた翌年の1975年、太一はナラ市内に住む親戚に歳暮の礼状を書き、その中で「重蔵おじ、もし次が男の子だったら俺は」と仮定して、やはりナラの山から名をとっている。ちなみに、この遠野重蔵氏(郷土史家)は電話取材に際して、三つの山の頂点を地図上でつないでみるとどうなるか、とさかんに我々を挑発したのだが、ここで古代ミステリーの世界に迷い込むわけにもいかない。
むしろこの名付けのエピソードには、無口だと誰もが口をそろえて言い、いつまでもよくわからない人物と評される太一の、何事か手触りのある思考の輪郭を我々は感じる。決して気分屋には出来ない、継続した沈思黙考の中に遠野太一はおり、次女の美和はそれを鋭敏に受け取っていた。父はいつでも何かを考えていました、けれども父自身にもそれが何であるかがわかっていない風でした、と美和は言っている。
残念ながら現在、太一の思考の内容を確認する手段はない。なぜなら4年前の1990年、美和が16歳になった夏に、遠野太一は長年家族と住んだ群馬県桐生市の一軒家を出たまま帰らなくなってしまったからである。死んだのでは、少なくとも当時はなかった。美和によれば、父はまるで帰り道を忘れたようにいなくなった、のであった。
実際、太一は年に数回、美和にだけ電話をしてきた。つまり、美和が最初に電話を取り、しばらく無言でいる父の息遣いと耳を澄ましているらしき集中に気づいて、近くには誰もいないと告げた時にだけ、太一はしゃべり出した。したがって、太一からの着信自体はもっとずっと多かったと思われる。
美和との通話において、太一は主に妻・壮子と長女・香の消息を聞きたがった。したがって、美和は自分のみが父の声を聴き得るという特権のかわりに、父が自分については何も知ろうとしないという事実を突きつけられて混乱した。だが、だからといって美和は父からの電話を拒絶しなかった。
その太一からの電話が途絶えたのが1993年5月4日以降、と手帳も見ずに日付を言ったのは美和で、拒絶するどころか彼女が父からの発信を心待ちにしていたことがよくわかる。さらにこの証言の直後、美和は同日カンボジアのバンテアイミアンチェイ州で(何度か録音テープを聞いたが、美和はこの州の名をよどみなく発音している)日本から派遣された文民警察官が武装集団に襲われ、死傷者が出たことを思い出している。遠野美和に取材したことのある人間で、こうした彼女のきわめて高い記憶力に驚きをもらさなかった者は一人もいない。
- 我々の恋愛 6-2
-
『BLIND』-7
その美和の能力によれば、彼女の母・壮子が、生まれ育った桐生市の友人らと共に『伝説のカイコ<シロ玉>を復活させる市民の会』に関わり始めたのが、父・太一の失踪のちょうど7日前であった。壮子はその蒸し暑い日(1990年7月7日)の夜、彼女自身の証言では、出身校である桐生第三女子高等学校の同級生・花房由香里(『伝説のカイコ<シロ玉>を復活させる市民の会』副会長)と二時間ほど「珍しく」長電話をした。
「珍しく」、と付け加えたのは壮子自身だが、ある時期から彼女の通話は常に長かったと美和は言っているし、姉・香もそれには完全に同意している。そして、その“ある時期”は、太一が50歳を過ぎて職を失った頃とぴったり重なる。
それまで勤めていた会社は、壮子の父・数一が興した地方の代理店であり、太一はなんの手柄がなくても事業を継承することが内々に決まっていた。だが、太一は突然、社に退職願を出した。もちろん、“突然”と見たのは周囲の人間であり、太一は入社以来四半世紀、その日を予感し続けたのかもしれない。娘たちの名前が奈良の山からとられている理由を含め、太一に関する調査報告はのちの章に譲ることにして、レポートを先に進める。
当時、壮子は自分の父とも、取引先の地方財閥の重鎮とも、社の株主たちとも電話で長い話をした。おそらく、この件に関しては太一とこそ最も会話をしていなかったのではないか。結果、壮子は父の財産であるマンションを二棟譲り受け、その家賃を運用することで遠野家の経済をまかなっていくこととなった。
さて、1990年7月7日午後10時過ぎ、壮子は長い通話のあと、自分が養っている家族全員を居間に招集し、七夕は棚機とも書き、織物の文化と密接に結びついているというエピソードから始めて、桐生市の役場がオリヒメ市にあることを皆に思い出させたのち(オリヒメは7月7日を象徴する女神であり、一年に一度この日が晴れなければ愛する男神と邂逅出来ないという、遠距離恋愛の代表者でもある)、シロ玉という桐生特有のカイコが戦後十数年の間にいかに貴重で神秘的な絹を作り出したか、それがひいては貧しかった日本の産業の礎を築き、復興の役に立ったかについて滔々と熱弁をふるった。
だが、シロ玉はウィルスに弱かった。他品種の輸入、交配を経て、かの美しい種は一気に絶滅した。あたしは、そのシロ玉をもう一度この桐生に甦らせたい。壮子は七夕の夜、家族の前でそう力強く言い放った。
美和の中で、この不在のカイコ復活への母の情熱は、退職以来まるで仕事をしようとしない父への叱咤激励と直接つながっており、同時に皮肉にも当の父を失踪させてしまう原因でもあった。
しかしながら、シロ玉と同じく太一が不在になったからといって、壮子の活動が終息することはなかった。むしろ、そのカイコが太一自身であるかのように、壮子はシロ玉の復活を願った。ちなみに、それ以来毎年七夕には、遠野家の居間に巨大な笹が飾られ、短冊に「甦れ!」「甦れ!」「甦れ!」と執拗に同じ達筆が踊ることともなったのである。
我々の調べでは、娘二人のうちで美和のみが両親のこうした行動のちょっとした過剰を気に病み、逐一記憶にとどめていた。姉・香は幼稚園の頃から、我関せずという外界への一貫した態度でつとに知られており、一時は自閉傾向も認められていたくらいだった。
家族の中で最もよく繰り返されたのは、香が小学校高学年の修学旅行時、同級生集団とキョウト市内ではぐれた折の逸話である。一時間後、担任に発見された彼女は、交差点の中央で「人」の形になって止まった二台の大型トラックの、ちょうど文字の接点のあたりに立っていた。正面衝突という最も派手な交通事故に巻き込まれたのだが、奇跡的に香には怪我はなかった。そして、救急車とパトカーと野次馬と担任の金切り声で騒然とする夕方の交差点で、香は静かに大判の雑誌を読み始めたのだという。理由を聞かれる度に、暇だったからと香は面倒くさそうに答えた。
美和は恋愛以前、この姉に苦手意識を持っていた。自分は愛されていないと感じたし、自分が愛しているのかどうかも不明だった。香をどう扱っていいのか、美和はまるでわからなかったのである。いや、それを言ったら、美和は母の扱い方もわからなかった。父に至っては、扱おうにも消えていた。
だから遠野美和はいつも微笑んでいた。とまどっている時、美和の顔は柔和になった。その笑顔のまま高校を卒業し、短大英文科をトマス・ハーディ作品を使った文法教育を受けて出ると、祖父の会社に入る話を断って(先に姉がそうしてくれていたから、母からの反対はさほど強くなかった)、市内のパン屋を数店経営する会社に就職した。
本社を『洞窟コーポレーション』と言った。チェーン店の名は『パン・ド・フォリア』、<狂気のパン>であった。美和は小学生の頃から通っていたこのパン屋で、自分が過去食べたパンの名前をすべて言えた。くるみパン、クロワッサン、狂気のクロワッサン、レーズン入り食パン、チーズ&パセリ練り込みロール、狂気のチーズ&パセリ練り込みロール、あずきカンパーニュ、クラブハウスサンド、懐かし蒸しパン、狂気の懐かし蒸しパン、有機野菜BLT……。美和は洞窟コーポレーションの社長から驚異の新人と呼ばれ、企画事業部に配属されることがすでに内定していた。
そして、入社前研修中の1994年3月10日、あの午前8時46分が訪れる。
華島徹のいる東京には雨が降っていた。だが、美和の桐生市は曇りだった。
- 我々の恋愛 6-3
-
『BLIND』-8
例えば、21世紀の明日生まれる子供は、「子機」という存在になんの思い入れも持たずに育つはずだ。彼らは思春期に至る以前に、個人的な通話のすべてを自分専用の携帯電話で行い始めるだろうからである。
かつて子機は家族からの情報上の自立を象徴し、同時に家族からの微温的な監視をも暗示していた。つまり、「子機」はまさに家族と密接につながったメディアだったのであり、我々はその懐かしさを知る最後の世代なのに違いない。
その朝、美和もまた子機を持ち、二階の自室に上がったのである。母・壮子が買った純白の留守番電話機セットには、もともと子機1しか付属していなかった。が、長電話のためだろう、壮子は子機2も追加購入し、1を自分専用として自室に置いたのだった。したがって、美和が使用したのは子機のうち、2の方である。
美和は酵母について徹底的に学んでおくようにと、洞窟コーポレーション社長・黒岩茂助(62)から直接、厳命を受けていた。新しいパンのためには、まず新しい酵母をという先駆者的発想を、遠い目をした黒岩は濃いヒゲの下から低い声で朗々と語ったという。
感激した美和はある限りの関係書籍を図書館から借りて読み、自宅でもパン生地の発酵を何度か試すうち、前日の昼間、数種類の酵母でパンを焼く店がトーキョーにあると、買い物から帰った壮子が言い出した。商店街でかかっていたFMラジオの番組(『モーニング・デュー』)で紹介されていたのだそうだ。壮子はそらで店の名前を覚えていた。
美和は即座に、ぶ厚い電話帳から店の番号を見つけ出した。話を聞きに行くしかあるまいと美和は決意していた。誰も使ったことのない酵母でふくらんだパンについて、美和はすでに夢のような構想を、まさに発酵前のパン生地のごとく練っていたからであった。応接間のテーブルの上で、美和は9ケタの電話番号を『酵母ノート』に書き写した。このとき、右から二番目の数字を写し間違えていなければ(3であるべきところが5になっていた)、この長いレポートは生まれていない。
本当は開店時間である午前9時きっかりに、調べた番号を押すつもりだった。だが、自室の机にノートを開き、子供の頃から使っている木の椅子に座ると気がはやった。営業日か否かも心配だったと美和は証言している。だから美和は相手が出るかどうかだけをまず確かめるために、電話をかけた。インターネットが出現する以前には、こうした行動は一般的にあり得た。
相手が出た途端に切るつもりでかける電話は、当然かけ手に罪悪感を与える。03から始まる番号をプッシュしながら、美和は冷たい子機2を耳に押しつけて息を詰めた。
コールは5回だったと美和は言っている。チャッという舌打ちのような音がして、美和の心臓ははね上がった。すると耳への圧力が変わり、速度の一定でないうねりが聞こえてきた。それが音楽であり、留守番電話につながったのだとわかるまでにわずかな時間がかかった。店が休みなのかもしれないと思う以前に、その音楽に聞き覚えがあることが美和を強くとらえた。甘く翳りのあるメロディだった。確かに自分はその曲を知っていた。だが、タイトルが出てこない。そのメロディにまつわる風景が、美和には思い出せなかった。
はい、華島徹です。ただ今留守にしています。ピーッという音のあとにお名前とご用件と連絡先を吹き込んで下さい。
数秒の音楽に続くメッセージを、美和はほとんど聞き逃した。1994年3月10日、午前8時46分の通話はそのまま終わった。
園田吉郎が華島徹に譲り渡した古い留守番電話のテープには、したがって何も残らなかった。このMEISON製の初期型留守番電話KL-B200がなぜ、園田から華島に手渡されたのかはまたのちに語ることにして、我々はまずここで、美和をとらえた音楽について報告しておきたい。
華島徹によって確認されたところによれば、それは紛れもなく『just the two of us』という1980年のヒットソングであった(グローヴァー・ワシントンJRのアルバム『ワインライト』収録)。ちなみに、本曲をBGMに使うようにと華島に古いカセットテープを渡したのはやはり園田吉郎で、そのため音の速度が一定でなく、美和を迷わせたことになる。
歌詞が二人にとって大変予言的なので、一部をここに掲載しておく。
透明な雨粒が落ちていく
そして美しいことに
太陽の光がやがて
僕の心に虹を作る
時々君を思う時にも
一緒にいたい時にも
二人きり
二人きりでいればかなう
僕ら二人でいれば
砂上に楼閣を築きあげて
たった二人
君と僕
(日本語訳・佐治真澄)
- 我々の恋愛 7-1-b
-
『BLIND』9-1-b
その夜まで、ここで語るべき話はない。
華島徹は“ランド”閉園後、園田吉郎につきあって駅前にある唯一の飲食屋で生ビールを二杯飲み、幾つかのつまみとトンカツを食べ、最後に茶漬けをすすった。それは園田が経費として提出したレシートからもわかる。
小雨の中、なお頭部を白く煙らせて上機嫌でいた園田とホーム上で反対方向に別れ、東亀沢駅に着いたのが当時のダイヤによると午後9時21分。コーポ萱松の二階には午後9時40分までにたどり着いていたことになる。
傘を閉じ、木目調のドアを開けようとすると、暗い部屋から静かに茜色の光が漏れ出してきて徹はひどく驚いたと言っている。しかし、それは脚色された思い出だろう。実際は単純な赤色の光であったはずで、つまり通話を示すランプだった。徹はベルの音が苦手で音量を最小にしていた。
靴も脱がずに部屋にあがり、受話器を取ったが、すでに電話は切れていた。ツーツーツーという音が薄闇の中に響いた。留守番電話の件数を示す小窓に5と、やはり赤く表示されていた。それほど多くのメッセージがあったのは初めてで、実家に何かあったのではないかと徹は不安になった。雨で濡れた靴をはいたまま、徹はデジタル数字が放つ光を頼りに再生ボタンを押した。
その夜まで、ここで語るべき話はない。
華島徹は“ランド”閉園後、園田吉郎につきあって駅前にある唯一の飲食屋で生ビールを二杯飲み、幾つかのつまみとトンカツを食べ、最後に茶漬けをすすった。それは園田が経費として提出したレシートからもわかる。
小雨の中、なお頭部を白く煙らせて上機嫌でいた園田とホーム上で反対方向に別れ、東亀沢駅に着いたのが当時のダイヤによると午後9時21分。コーポ萱松の二階には午後9時40分までにたどり着いていたことになる。
傘を閉じ、木目調のドアを開けようとすると、暗い部屋から静かに光がこぼれ出してきて徹はひどく驚いた。しかし、それは脚色された思い出だろう。実際は単純な赤色の光であったはずで、つまり通話を示すランプだった。徹はベルの音が苦手で音量を最小にしていたのだ。
靴も脱がずに部屋にあがり、受話器を取ったが、すでに電話は切れていた。ツーツーツーという音が薄闇の中に響いた。留守番電話の件数を示す小窓に5と、やはり赤く表示されていた。それほど多くのメッセージがあったのは初めてで、実家に何かあったのではないかと徹は不安になった。雨で濡れた靴をはいたまま、徹はデジタル数字が放つ光を頼りに再生ボタンを押した。
すべてが無言だった。無言のまま、保存の規定時間いっぱいまで相手は通話を切らなかった。5本目まで聞き終えると、徹はのそのそと玄関まで戻り、靴を脱いだ。雨は靴下まで濡らしていた。徹は裸足になった。外で自転車のブレーキがブランコめいた音できしんだのを、徹は覚えている。
もう一度1から5までの無言を聴き終えた。『just the two of us』を歌う声の間に、かすかな息づかいがあるように思った。再生音量を上げ、徹は息づかいの温度を探った。同じ人物が何度もかけてきていると徹はやがて確信し、それらが単なる無言電話なのではなく、メッセージがないこと自体がメッセージではないかと思った。この時点で、すでに徹は美和のことを美和以上に理解しようとしていた。
我々インタビュアーの討議の中で、『just the two of us』が催淫効果を持つのではあるまいか、という仮説が一時有力視されたことも記しておきたい。美和もこの日、5回この楽曲を聴き、次第に徹の声に魅かれてそれを目当てについふらふらと翌日も通話をするのだし、徹はありもしなかった可能性の方が強い息づかいを同じ曲の向こうに見つけ出して、まだ性別もわからない相手に圧倒的な好意を抱いたのだから。
- 我々の恋愛 7-2
-
『BLIND』9-2
ヘレン・フェレイラは黄金色の髪をした長身のアメリカ人女性で、我々の中では執拗なほど細かい聞き取りをする調査員として有名だし、パリで数年間カール・ラガーフェルドのフィッティングモデルをつとめていたという異色の経歴の持ち主だが、御存知のように彼女もまた、その日の遠野美和による5回に及ぶ通話を克明に記録している。
一回目の時刻はもう我々がそらで言えるはずの、午前8時46分である。
二回目は切ってすぐ。美和は目当てのパン屋に電話がつながっていないと考え、その理由がわからず不安になり、もしかするとテープの中で店名を言っていたのを聞き逃したのかもしれないと思い直しながらも、すでにその時点で例の音楽の、海底をたゆたう藻のような揺れや曇天の下の群衆のざわめきに似たくぐもりをかなり正確にとらえていたと言われている。
その証拠にとヘレンは、美和が通話時に開いていたノートの隅に描かれた意味不明な、もじゃもじゃした、西部劇などで風に吹かれて地を転がってくる枯れ枝の塊のような図を添付している。それは一回目の電話と二回目の電話の間に描かれたいたずら書きとされているのだが、『20世紀の恋愛を振り返る十五カ国会議』分科会において、ヘレンはボールペンの赤インクの跡が、件の曲のキーボードの音の高低に完全に一致していると抑制的な声で主張し、それもひとえに驚異的なリスニング能力、表現力ゆえだと称賛した。美和=超人説も我々の中に絶えないが、ヘレン・フェレイラはその説をとる最右翼の人物だろう。
ともかく、美和は数分のち、リダイアル機能を使うことなく番号を入力し直した。押し間違いの可能性を考慮したからだが、かといってノートを再確認することはしなかった。
呼び出し音が切り替わると、またあの音楽が押し寄せてきた。南国の湿気のような、心地よい疲れのような、あの音楽。クリーム色の竜巻がスローモーションになって見えた、と美和は言っている。これはヘレン・フェレイラ以外の調査員も一様にレポートに書き込んでいる言葉だ。
“絶えず空気が上昇する竜巻の中で”、美和はこの曲を聞いたことがある、と思った。けれどそれがどんな歌手の、なんという曲かを自分は教えてもらっているだろうか。はっきりとは思い出せないが、私は知りたがったはずだ。曲の名がわからないように、襲いかかる寂しさにも美和は名前がつけられなかった。
すると、靄の奥から、くぐもった男の声が聞こえた。
はい、華島徹です。
美和はうろたえた。そして、間違い電話をしたのだとはっきり認識した。
ただ今留守にしています。
ではこの人にも曲名を聞くことが出来ないのだな、と美和は奇妙な感慨を抱いたという。と同時に、見知らぬ人の家に呼び出し音を響かせたことに怖れを感じもした。21世紀の現在においてさえ、間違い電話には奇妙な罪悪感がつきまとう。いや、“罰せられるのではないか”という反射的な怖れというべきだろうか。けれど、途中で切ることも美和には出来なかった。その方が罪が重いと思った彼女は、罰を受けるように録音テープの声に耳を澄ました。
ピーッという音のあとにお名前とご用件と連絡先を吹き込んで下さい。
謝罪の言葉が出かかった。しかし、美和がとどまったのは、自分がすぐにもう一度電話をするとわかったからだった。
次で必ず、赤い靄の記憶を呼び起こしてみせる。美和はそう考えながら子機2の『切』ボタンを押し、今度はリダイアルの機能を使った。その瞬間、あえて間違い電話をかけるという次元の違う行為に美和は足を踏み入れたことになる。
ヘレン・フェレイラは、三度目の電話のあとの遠野美和の落胆を想像してみるよう、レポートの読者に訴えている。もやもやはいっそう増し、罪の意識も“出来あがったソーセージを羊の腸でもう一度包むように” 厚くなった。
美和はいったん階下に降り、電話帳で番号を確認し直した。写し間違いの事実は、記憶をたどれなかった敗北感とともに彼女を打った。美和はその場で親機を使い、開店直後のパン屋『デルスウザーラ』に電話をすると、一方的に酵母の話をして店員をとまどわせたという。「あの時、美和の話していたアイデアは画期的でした。酵母を進化させるんじゃなくて……ちょっと今はくわしく言えないんですが、私は発想を盗まれてしまうんじゃないかと心配で、キッチンから飛び出しそうになったほどです。幸運なことに、相手が酵母の知識のないアルバイトの男の子だったようで、美和もあきらめて電話を切りました」(遠野壮子)。
壮子によれば、それから夕方まで二人は基本的に、一階のリビングルームにいた。掃除も洗濯も久しぶりに一緒にしたのだが、美和は考えごとにふける様子で、時おりテレビを置いたチーク材の幅広い棚からアナログレコードを引っ張り出しては、それに針を落として聴いたという。美和自身は物心つく頃からCDにしか触れていなかったから、そのほとんどが父の太一
の残していった所有物で、壮子が言うには “アジアの民族音楽やロシア聖教の音楽コレクションがたくさんあるのに、娘は俗な音楽ばかり選んで少しずつかけてやめ、せっかく掃除した部屋を絶えず埃臭くした”のだそうだ。
四回目と五回目の電話は、姉の香の帰宅を待った夕食後、それも明らかに壮子の入浴時を狙った21時過ぎに行われた。それは姉の“やましい電話ではないかと感じた”という証言でもわかる。美和は壮子の監視をさけるように、母親がバスルームに入るのを待って二階に上がったのだった。
若い方々はもう御存知ないだろう。子機の通話は親機のボタンの緑色の点滅で必ず確認出来た。かつて一家に一台の電話が当たり前の時代があり、誰がいつ使っているのかを家族はお互い暗黙のうちに知っていたのである。
もしもつながったら切るつもりだった、と美和本人は言っている。音楽のことを思い出しているうちに、徹の言葉と声の記憶を何度もなぞるようになったのだ、とも。
- 我々の恋愛 7-3-1
-
『BLIND』9-3-1
翌日も同じ銀色の電車に乗り、同じ駅で降りて「あらはばきランド」まで歩いた。
僕は気に入っていた黄色いベルトのスウォッチを何度も確認したし、運営本部の上方に掛けられた丸い時計とタイムカードを見比べた。いつもより少し早いペースで歩いたはずなのに、僕は普段と同じ時間に会社に着いていた。
ロッカールームでつなぎに着替え、担当エリアごとに本部の壁面に並べて下げられた鍵束をつかむと、連絡書類にサインをしてからバックヤードに入り込んだ。午前中の空気はまだ肌寒かった。指定のボア裏地付きジャンパーをはおって出ればよかったと思った。少なくとも、すれ違う僕と“ハロー、おはようございます”と決まった挨拶を交わし合うスタッフは男も女も年齢問わず、みなその群青色のジャンパーを着ていた。
さらに早足になった僕はN扉の位置からバックヤードを抜け、開園前の「レイン・レイン」の裏口に移動した。ちなみに当時は設計変更にまだ対応しておらず、N扉は裏口から二メートルほどずれていた。そのせいで、もしお客さんが入場している時間だと、スタッフが一瞬見えざるを得なかった。だからN扉の内側、目の高さあたりには常に『ここから先はあなた自身がアトラクション!』という貼紙があった。
裏口の鉄扉は外壁よりかすかに濃い色に塗られていた。僕は三つある錠をすべて開け、冷たく湿った空気の中に入った。常時回っているモーターの低い音が地の底から重層的に響いていた。振動そのものを耳にしているのは、今自分だけだと思った。
「レイン・レイン」はアトラクションとしては七つのブロックに分かれていた。時おり一階から二階、あるいは地下へと部屋が移るのは、全体がH2Oの分子構造、つまりV字型の連なりを模しているからで、水平にV字のゾーンなら階は変わらず道が分かれるし、上下に階段が向かっていればV字が垂直になっているのだった。
僕は連続する分岐の最も手前にある操作室に入り、複数あるモニターのスイッチをひとつずつつけた。タイムラグがあって、やがて各ブロックの映像がモノクロで揺れ出した。
特に闖入者がいる様子もなかった。流れるべき水はすべて正しい方向に流れていたし、夜になると嵐がやむ区域は豪雨を待っていた。内壁をつたう水滴はほとんど落ちきっており、それが床に隠されたパイプを通って排出されているのは、湿度メーターや自動ポンプの動きで確認出来た。各ブロックを視認しようと、僕は備え付きの懐中電灯を片手に操作室を出た。
来た、と思うと裏口の鉄扉のノブが回った。逆の順ではなかった。
「お、早いじゃないか」
扉から館内に体を滑り込ませながら、園田さんは僕の姿を見ずに言った。
「ハロー、おはようございます」
「ほい、ハロー」
古参の中でも、園田さんは特別に挨拶が雑だった。曖昧に下を向いたまま操作室に入った園田さんは群青色のジャンパーを肩にはおっていた。頭上にはその日、白い煙がただよっていなかったように思う。
ゴミ箱に何か軽いものを放った音がした。鍵束を確認し、作業連絡ノートを開いたのもわかった。一度ティッシュで鼻をかむのに続いて、まだノートに目を落としているだろうと思われるくぐもった声が部屋から漏れてきた。
「人生に不均衡があらわれるときは、まず地鳴りが聞こえるんだよ。やつも聞いただろう」
「え?」
という声が自分の咽喉の奥からした。地鳴りという単語から、さっき聴いたモーター音を連想するのが精いっぱいだった。園田さんは続けて、しかし今度は少しゆっくりと言った。
「キシロウ・ナカムラは今日、捕まる」
ますますわけがわからなくなった僕は、思わず操作室の中に戻った。園田さんは新聞に目を落としていて、そのままの姿勢で口を開いた。
「斡旋収賄。国会会期中に逮捕される議員は、ずいぶん久しぶりなんだとさ。あ、わかるか、ゼネコンの」
「わかります。あの、その前に園田さんが言ってた地鳴りの話なんですけど……」
園田さんはそれにはまったく答える気がないようだった。
「俺も読みでは一字違いのキチロウだけに気になるんだよ、キシロウ・ナカムラのことは。こっちはしがない雨職人、向こうは大物政治家だけどな」
ようやく園田さんは僕を見た。そしてくしゃくしゃっと笑った。もう何を聞いても答えないだろうと思った。園田さんの中で物事が短く完結してしまったのだ。
ヘルメットをかぶった園田さんの後ろを僕は歩いた。まず入り口から最も近い『ジャスト・ビフォー・ザ・レイン』の点検だった。夏の夕立が始まる直前の湿度を、その部屋は完全再現していた。不連続にそよぐ不穏な南風も、みるみる空を覆う黒雲も、急激な気圧の変化もすべて園田さんのプログラム通り動いていた。お客さんはその日もこのアトラクション内で、“動物ならではの勘を取り戻す”に違いなかった。雨が降る、と思うのだ。
- 我々の恋愛 7-3a
-
『BLIND』9-3a
翌日も同じ銀色の電車に乗り、同じ駅で降りて「あらはばきランド」まで歩いた。
僕は気に入っていた黄色いベルトのスウォッチを何度も確認したし、運営本部の上方に掛けられた丸い時計とタイムカードを見比べた。いつもより少し早いペースで歩いたはずなのに、僕は普段と同じ時間に会社に着いていた。
ロッカールームでつなぎに着替え、担当エリアごとに本部の壁面に並べて下げられた鍵束をつかむと、連絡書類にサインをしてからバックヤードに入り込んだ。午前中の空気はまだ肌寒かった。指定のボア裏地付きジャンパーをはおって出ればよかったと思った。少なくとも、すれ違う僕と“ハロー、おはようございます”と決まった挨拶を交わし合うスタッフは男も女も年齢問わず、みなその群青色のジャンパーを着ていた。
さらに早足になった僕はN扉の位置からバックヤードを抜け、開園前の「レイン・レイン」の裏口に移動した。ちなみに当時は設計変更にまだ対応しておらず、N扉は裏口から二メートルほどずれていた。そのせいで、もしお客さんが入場している時間だと、スタッフが一瞬見えざるを得なかった。だからN扉の内側、目の高さあたりには常に『ここから先はあなた自身がアトラクション!』という貼紙があった。
裏口の鉄扉は外壁よりかすかに濃い色に塗られていた。僕は三つある錠をすべて開け、冷たく湿った空気の中に入った。常時回っているモーターの低い音が地の底から重層的に響いていた。振動そのものを耳にしているのは、今自分だけだと思った。
「レイン・レイン」はアトラクションとしては七つのブロックに分かれていた。時おり一階から二階、あるいは地下へと部屋が移るのは、全体がH2Oの分子構造、つまりV字型の連なりを模しているからで、水平にV字のゾーンなら階は変わらず道が分かれるし、上下に階段が向かっていればV字が垂直になっているのだった。
僕は連続する分岐の最も手前にある操作室に入り、複数あるモニターのスイッチをひとつずつつけた。タイムラグがあって、やがて各ブロックの映像がモノクロで揺れ出した。
特に闖入者がいる様子もなかった。流れるべき水はすべて正しい方向に流れていたし、夜になると嵐がやむ区域は豪雨を待っていた。内壁をつたう水滴はほとんど落ちきっており、それが床に隠されたパイプを通って排出されているのは、湿度メーターや自動ポンプの動きで確認出来た。各ブロックを視認しようと、僕は備え付きの懐中電灯を片手に操作室を出た。
来た、と思うと裏口の鉄扉のノブが回った。逆の順ではなかった。
「お、早いじゃないか」
扉から館内に体を滑り込ませながら、園田さんは僕の姿を見ずに言った。
「ハロー、おはようございます」
「ほい、ハロー」
古参の中でも、園田さんは特別に挨拶が雑だった。曖昧に下を向いたまま操作室に入った園田さんは群青色のジャンパーを肩にはおっていた。頭上にはその日、白い煙がただよっていなかったように思う。
ゴミ箱に何か軽いものを放った音がした。鍵束を確認し、作業連絡ノートを開いたのもわかった。一度ティッシュで鼻をかむのに続いて、まだノートに目を落としているだろうと思われるくぐもった声が部屋から漏れてきた。
「人生に不均衡があらわれるときは、まず地鳴りが聞こえるんだよ。やつも聞いただろう」
「え?」
という声が自分の咽喉の奥からした。地鳴りという単語から、さっき聴いたモーター音を連想するのが精いっぱいだった。園田さんは続けて、しかし今度は少しゆっくりと言った。
「キシロウ・ナカムラは今日、捕まる」
ますますわけがわからなくなった僕は、思わず操作室の中に戻った。園田さんは新聞に目を落としていて、そのままの姿勢で口を開いた。
「斡旋収賄。国会会期中に逮捕される議員は、ずいぶん久しぶりなんだとさ。あ、わかるか、ゼネコンの」
「わかります。あの、その前に園田さんが言ってた地鳴りの話なんですけど……」
園田さんはそれにはまったく答える気がないようだった。
「俺も読みでは一字違いのキチロウだけに気になるんだよ、キシロウ・ナカムラのことは。こっちはしがない雨職人、向こうは大物政治家だけどな」
ようやく園田さんは僕を見た。そしてくしゃくしゃっと笑った。もう何を聞いても答えないだろうと思った。園田さんの中で物事が短く完結してしまったのだ。
ヘルメットをかぶった園田さんの後ろを僕は歩いた。まず入り口から最も近い『ジャスト・ビフォー・ザ・レイン』の点検だった。夏の夕立が始まる直前の湿度を、その部屋は完全再現していた。不連続にそよぐ不穏な南風も、みるみる空を覆う黒雲も、急激な気圧の変化もすべて園田さんのプログラム通り動いていた。お客さんはその日もこのアトラクション内で、“動物ならではの勘を取り戻す”に違いなかった。雨が降る、と思うのだ。
- 我々の恋愛 7-3b
-
『BLIND』9-3-2
もごもごと口の中で何かつぶやいている園田さんについて歩き、ブロックすべてに特に異常がないことを確認し終えた僕は、作業連絡ノートをつけに操作室へと移動した園田さんとは別に、最下層地下二階のどんづまりにある熱帯雨林の部屋『サンダーフォレスト』へ戻った。
疑似池がいくつもつながる水辺の白い靄の奥にアマゾンツノガエルが生きている、という噂があった。ゲストが自分で世話しきれなくなった数匹を放してしまったのだ、と言われていた。噂には、小型のワニがいるというものもあった。アラハバキランド本体としては、レインレインが水族館ではない以上、そんな生物たちが存在していてはならなかった。
そして確かに、『サンダーフォレスト』にワニはいなかった。ただ、小さな水棲生物の方は、張りぼての岩やプラスチック製のシダやツタのからまる疑似池の中にいた。それを発見したのも、アマゾンツノガエルだと同定したのも、池の中にエサとしてメダカを放したのも園田さんだった。僕を含むスタッフの何人かはそれを知っていて、本部の人間がたまに検査に来る折などは、BGMを大きめにした。疑似環境音の中にはカエルや鳥の声が雷雨の音に混じっていた。
園田さんはその朝、カエルたちの食欲不振をしきりと心配していた。近頃メダカが思うほど減らないとつぶやいたし、そもそもアマゾンツノガエルの姿を見ないと首をひねった。それが園田さんの独り言のほとんどを占めていた。
僕はかわりに見つけてやろうと思った。機械が稼働し始めた施設内は基本的に暗く、うっそうと茂るかに見える疑似植物の葉をかきわけて進まねばならなかった。頻繁に雷が光ったが、むしろそれが目をくらませた。生温かい雨はひっきりなしに頭上の植物から頭に垂れた。ちなみに、レインレインのパンフレットには『サンダーフォレスト』の宣伝文として、“落ちる雨音はサンバのリズム”と書かれていたが、むしろそれは律動のない日本の五月雨の音に近い、と今レポートを書く者としては思う。
それはともかく僕は最奥の疑似池まで行き、水面を仔細に見た。カエルが休めるように蓮の葉が何枚もしつらえられていた。したがってそこだけがアマゾンというよりもアジア風になっていた。あたりにはプラスチックで出来た毒々しい色のカエルやトカゲが目立った。本物がいなかった。
ザーザーと雨は鳴り、あちらこちらでチョロチョロと水流を作っていた。水辺は絶えず揺れた。僕は寄せる小さな波をぼんやり見た。生き物らしい動きがあれば、すぐにそちらに焦点を合わせようと思っていた。無数の水紋が繰り返し広がった。はおった合羽にも水滴が落ち、雷鳴の中でパタパタと響き続けた。やがて音は寄り合わさって意識の奥にしりぞき、僕は奇妙な集中状態に入った。
かわりに前夜の留守電の、僕自身の声に耳を傾ける誰かのかすかな息遣いが記憶から引き出された。それはひそやかで高い音の領域にあり、喉と口腔の狭さを暗示していた。女の人だ、と僕はすでに気づいていたことを確信した。ひょっとすると小さな女の子かもしれない。助けを呼ぶように受話器を握りしめ耳に当て、テープから流れる声を聞いているか弱い存在を僕は感じた。数十秒後、そのかすかな息の音が、『サンダーフォレスト』全体に共鳴した。
結局、僕はアマゾンツノガエルを見つけられないまま、レインレインのエントランスに向かった。朝礼はその黒塗りの壁の前、電光掲示板が小さな赤い電球の数で各ブロックの雨量を示している場所で行われることになっていた。
スタッフ、キャスト総勢十一人の前で園田さんは話をし、また政治家の名前を言った。何かが変化しつつある、いや変化したと言った。みんなが適当に聞き流す中、派手なメイクの女子大生でバイトに入ったばかりの間下さんだけが、なんで国会の会期中に議員は逮捕されないのかとか、なんで園田さんはその話を今したのかとか聞いた。間下さんはすでに“なんでちゃん”というあだ名で呼ばれていて、彼女の配属以来、朝礼は少し長めになっていた。
こうしていつも通りの一日が始まった。違うのはあの音だけだった。のどかな朝礼の間にも、年齢層の幅広いゲストを迎える間にも、あだ名といえば“封筒”と呼ばれている四角い背中で長身の佐々森と昼食にカレーライスを二杯ずつ食べている音の中にも、午後に再び『サンダーフォレスト』の疑似池に忍び込んでカエルの骨らしき真っ白な物を見つけてしまった瞬間にも、伸びないゲスト数を本部で揶揄されながらタイムカードを押した夕方にも、園田さんの誘いを断って少し早足で駅に向かい、家に帰って夕食をカップラーメンですませたあとも、あの音は僕を貫いていた。
9-3-1、9-3-2 報告 ルイ・カエターノ・シウバ(ブラジル)
- 我々の恋愛 9-3b
-
『BLIND』9-3b
もごもごと口の中で何かつぶやいている園田さんについて歩き、ブロックすべてに特に異常がないことを確認し終えた僕は、作業連絡ノートをつけに操作室へと移動した園田さんとは別に、最下層地下二階のどんづまりにある熱帯雨林の部屋『サンダーフォレスト』へ戻った。
疑似池がいくつもつながる水辺の白い靄の奥にアマゾンツノガエルが生きている、という噂があった。ゲストが自分で世話しきれなくなった数匹を放してしまったのだ、と言われていた。噂には、小型のワニがいるというものもあった。アラハバキランド本体としては、レインレインが水族館ではない以上、そんな生物たちが存在していてはならなかった。
そして確かに、『サンダーフォレスト』にワニはいなかった。ただ、小さな水棲生物の方は、張りぼての岩やプラスチック製のシダやツタのからまる疑似池の中にいた。それを発見したのも、アマゾンツノガエルだと同定したのも、池の中にエサとしてメダカを放したのも園田さんだった。僕を含むスタッフの何人かはそれを知っていて、本部の人間がたまに検査に来る折などは、BGMを大きめにした。疑似環境音の中にはカエルや鳥の声が雷雨の音に混じっていた。
園田さんはその朝、カエルたちの食欲不振をしきりと心配していた。近頃メダカが思うほど減らないとつぶやいたし、そもそもアマゾンツノガエルの姿を見ないと首をひねった。それが園田さんの独り言のほとんどを占めていた。
僕はかわりに見つけてやろうと思った。機械が稼働し始めた施設内は基本的に暗く、うっそうと茂るかに見える疑似植物の葉をかきわけて進まねばならなかった。頻繁に雷が光ったが、むしろそれが目をくらませた。生温かい雨はひっきりなしに頭上の植物から頭に垂れた。ちなみに、レインレインのパンフレットには『サンダーフォレスト』の宣伝文として、“落ちる雨音はサンバのリズム”と書かれていたが、むしろそれは律動のない日本の五月雨の音に近い、と今レポートを書く者としては思う。
それはともかく僕は最奥の疑似池まで行き、水面を仔細に見た。カエルが休めるように蓮の葉が何枚もしつらえられていた。したがってそこだけがアマゾンというよりもアジア風になっていた。あたりにはプラスチックで出来た毒々しい色のカエルやトカゲが目立った。本物がいなかった。
ザーザーと雨は鳴り、あちらこちらでチョロチョロと水流を作っていた。水辺は絶えず揺れた。僕は寄せる小さな波をぼんやり見た。生き物らしい動きがあれば、すぐにそちらに焦点を合わせようと思っていた。無数の水紋が繰り返し広がった。はおった合羽にも水滴が落ち、雷鳴の中でパタパタと響き続けた。やがて音は寄り合わさって意識の奥にしりぞき、僕は奇妙な集中状態に入った。
かわりに前夜の留守電の、僕自身の声に耳を傾ける誰かのかすかな息遣いが記憶から引き出された。それはひそやかで高い音の領域にあり、喉と口腔の狭さを暗示していた。女の人だ、と僕はすでに気づいていたことを確信した。ひょっとすると小さな女の子かもしれない。助けを呼ぶように受話器を握りしめ耳に当て、テープから流れる声を聞いているか弱い存在を僕は感じた。数十秒後、そのかすかな息の音が、『サンダーフォレスト』全体に共鳴した。
結局、僕はアマゾンツノガエルを見つけられないまま、レインレインのエントランスに向かった。朝礼はその黒塗りの壁の前、電光掲示板が小さな赤い電球の数で各ブロックの雨量を示している場所で行われることになっていた。
スタッフ、キャスト総勢十一人の前で園田さんは話をし、また政治家の名前を言った。何かが変化しつつある、いや変化したと言った。みんなが適当に聞き流す中、派手なメイクの女子大生でバイトに入ったばかりの間下さんだけが、なんで国会の会期中に議員は逮捕されないのかとか、なんで園田さんはその話を今したのかとか聞いた。間下さんはすでに“なんでちゃん”というあだ名で呼ばれていて、彼女の配属以来、朝礼は少し長めになっていた。
こうしていつも通りの一日が始まった。違うのはあの音だけだった。のどかな朝礼の間にも、年齢層の幅広いゲストを迎える間にも、あだ名といえば“封筒”と呼ばれている四角い背中で長身の佐々森と昼食にカレーライスを二杯ずつ食べている音の中にも、午後に再び『サンダーフォレスト』の疑似池に忍び込んでカエルの骨らしき真っ白な物を見つけてしまった瞬間にも、伸びないゲスト数を本部で揶揄されながらタイムカードを押した夕方にも、園田さんの誘いを断って少し早足で駅に向かい、家に帰って夕食をカップラーメンですませたあとも、あの音は僕を貫いていた。
9-3b報告 ルイ・カエターノ・シウバ(ブラジル)
- 我々の恋愛 7-3-2
-
『BLIND』9-3-2
もごもごと口の中で何かつぶやいている園田さんについて歩き、ブロックすべてに特に異常がないことを確認し終えた僕は、作業連絡ノートをつけに操作室へと移動した園田さんとは別に、最下層地下二階のどんづまりにある熱帯雨林の部屋『サンダーフォレスト』へ戻った。
疑似池がいくつもつながる水辺の白い靄の奥にアマゾンツノガエルが生きている、という噂があった。ゲストが自分で世話しきれなくなった数匹を放してしまったのだ、と言われていた。噂には、小型のワニがいるというものもあった。「あらはばきランド」本体としては、「レイン・レイン」が水族館ではない以上、そんな生物たちが存在していてはならなかった。
そして確かに、『サンダーフォレスト』にワニはいなかった。ただ、小さな水棲生物の方は、張りぼての岩やプラスチック製のシダやツタのからまる疑似池の中にいた。それを発見したのも、アマゾンツノガエルだと同定したのも、池の中にエサとしてメダカを放したのも園田さんだった。僕を含むスタッフの何人かはそれを知っていて、本部の人間がたまに検査に来る折などは、BGMを大きめにした。疑似環境音の中にはカエルや鳥の声が雷雨の音に混じっていた。
園田さんはその朝、カエルたちの食欲不振をしきりと心配していた。近頃メダカが思うほど減らないとつぶやいたし、そもそもアマゾンツノガエルの姿を見ないと首をひねった。それが園田さんの独り言のほとんどを占めていた。
僕はかわりに見つけてやろうと思った。機械が稼働し始めた施設内は基本的に暗く、うっそうと茂るかに見える疑似植物の葉をかきわけて進まねばならなかった。頻繁に雷が光ったが、むしろそれが目をくらませた。生温かい雨はひっきりなしに頭上の植物から頭に垂れた。ちなみに、「レイン・レイン」のパンフレットには『サンダーフォレスト』の宣伝文として、“落ちる雨音はサンバのリズム”と書かれていたが、むしろそれは律動のない日本の五月雨の音に近い、と今レポートを書く者としては思う。
それはともかく僕は最奥の疑似池まで行き、水面を仔細に見た。カエルが休めるように蓮の葉が何枚もしつらえられていた。したがってそこだけがアマゾンというよりもアジア風になっていた。あたりにはプラスチックで出来た毒々しい色のカエルやトカゲが目立った。本物がいなかった。
ザーザーと雨は鳴り、あちらこちらでチョロチョロと水流を作っていた。水辺は絶えず揺れた。僕は寄せる小さな波をぼんやり見た。生き物らしい動きがあれば、すぐにそちらに焦点を合わせようと思っていた。無数の水紋が繰り返し広がった。はおった合羽にも水滴が落ち、雷鳴の中でパタパタと響き続けた。やがて音は寄り合わさって意識の奥にしりぞき、僕は奇妙な集中状態に入った。
かわりに前夜の留守電の、僕自身の声に耳を傾ける誰かのかすかな息遣いが記憶から引き出された。それはひそやかで高い音の領域にあり、喉と口腔の狭さを暗示していた。女の人だ、と僕はすでに気づいていたことを確信した。ひょっとすると小さな女の子かもしれない。助けを呼ぶように受話器を握りしめ耳に当て、テープから流れる声を聞いているか弱い存在を僕は感じた。数十秒後、そのかすかな息の音が、『サンダーフォレスト』全体に共鳴した。
結局、僕はアマゾンツノガエルを見つけられないまま、「レイン・レイン」のエントランスに向かった。朝礼はその黒塗りの壁の前、電光掲示板が小さな赤い電球の数で各ブロックの雨量を示している場所で行われることになっていた。
スタッフ、キャスト総勢十一人の前で園田さんは話をし、また政治家の名前を言った。何かが変化しつつある、いや変化したと言った。みんなが適当に聞き流す中、派手なメイクの女子大生でバイトに入ったばかりの間下さんだけが、なんで国会の会期中に議員は逮捕されないのかとか、なんで園田さんはその話を今したのかとか聞いた。間下さんはすでに“なんでちゃん”というあだ名で呼ばれていて、彼女の配属以来、朝礼は少し長めになっていた。
こうしていつも通りの一日が始まった。違うのはあの音だけだった。のどかな朝礼の間にも、年齢層の幅広いゲストを迎える間にも、あだ名といえば“封筒”と呼ばれている四角い背中で長身の佐々森と昼食にカレーライスを二杯ずつ食べている音の中にも、午後に再び『サンダーフォレスト』の疑似池に忍び込んでカエルの骨らしき真っ白な物を見つけてしまった瞬間にも、伸びないゲスト数を本部で揶揄されながらタイムカードを押した夕方にも、園田さんの誘いを断って少し早足で駅に向かい、家に帰って夕食をカップラーメンですませたあとも、あの音は僕を貫いていた。
9-3-1、9-3-2 報告 ルイ・カエターノ・シウバ(ブラジル)
- 我々の恋愛 9-4
-
『BLIND』9-4
ガチャリという音がした瞬間、美和は小宇宙を吸うかのように口を開けてのけぞり、そのまま動けなくなった。
はい、華島ですが。
という声が続いて受話器から耳に響いた。いや、本当はあとからそう思っただけで、実際は聞き取れない低い言葉が部屋にするりと入り込んできたと感じたはずだった。
翌3月11日金曜日、午後9時過ぎ。
自分がかけたのだから相手が出るのは当たり前だった。なのに美和は不意をつかれ、泣き出しそうになったのだった。
もしもし、もしもし。
声は何度か繰り返され、美和の正体を明かすよう迫った。美和は凍りついて動けなかった。
だがそのあと、意外なことに声は子供をあやすようにやわらいだ。
えっとー。
と声は言った。そして、
昨日に引き続きこんばんは。
という言葉になって短い笑いに変わった。
美和は思わず硬直をとかれ、
あ。
と言ってしまった。
それが最初の会話になった。
ごめんなさい、何度もあたし。
とだけ美和は続けた。言葉の束がほどけ出すような気がした、という。
すると今度は相手が、つまり徹が、
あ。
と言った。
ひとつ呼吸があって、
僕、子供かもしれないって思ってました。
と徹はなぜか感心するように言った。
あ、違うんです。
と美和は答えた。
子供じゃ……。
と言ったのは二人同時だった。それぞれに言いたいことは異なっていた。
ゆずりあって黙り、互いに相手の息の音を集中して聞いた。
しばらくそうしていた。相手の無言にじっと耳をすますことが、すでに両者にとって懐かしい行為になっていた。美和も徹も留守番電話のテープを通して、何度もそうしてきたのだ。
やがて美和はもう一度、ごめんなさいと謝り、間違い電話をかけたら留守番電話のメッセージに使っている音楽が気になり始めてしまって、と言った。
徹は即座に曲名を答え、どんなアルバムに入っている曲であるか説明をした。園田さんに借りたものであることまで言おうとして、徹は口をつぐんだ。
すると、その日三度目の、
あ。
という声が美和の小さな口から飛び出した。
知っていたのだった。前日、リビングルームで見ていたのに、かけそこなっていた。それはやはり父の持っていたレコードの中の一曲で、まだ父が家にいた頃、何度かかかっていたのだ。
それが大きな意味のある偶然だと美和は感じた。けれども、それを華島徹にどう話せばいいものか、そもそも話すべきかと美和は迷った。
美和は黙り込んだ。
その沈黙を徹は苦痛に感じなかった。
徹も黙っていた。
その沈黙に美和も耳を傾けていた。
ついにその日、三十分ほど二人は何も話さず、しかし受話器を握り続けた。
じゃあ、また明日とかに。
と徹が言い、
うん。
と美和は答えた。
電話を切ったあと、徹は相手の名前さえ聞いていないことに驚くとともに、そうであることに深い満足感を抱いた。
美和は階下に静かに降りてアナログレコードを一枚見つけ出し、それをカセットテープに録音して自室で聴いた。
9-4 金郭盛(韓国)
- 我々の恋愛 9-1
-
『BLIND』9-1
ガチャリという音がした瞬間、美和は小宇宙を吸うかのように口を開けてのけぞり、そのまま動けなくなった。
はい、華島ですが。
という声が続いて受話器から耳に響いた。いや、本当はあとからそう思っただけで、実際は聞き取れない低い言葉が部屋にするりと入り込んできたと感じたはずだった。
翌3月11日金曜日、午後9時過ぎ。
自分がかけたのだから相手が出るのは当たり前だった。なのに美和は不意をつかれ、泣き出しそうになったのだった。
もしもし、もしもし。
声は何度か繰り返され、美和の正体を明かすよう迫った。美和は凍りついて動けなかった。
だがそのあと、意外なことに声は子供をあやすようにやわらいだ。
えっとー。
と声は言った。そして、
昨日に引き続きこんばんは。
という言葉になって短い笑いに変わった。
美和は思わず硬直をとかれ、
あ。
と言ってしまった。
それが最初の会話になった。
ごめんなさい、何度もあたし。
とだけ美和は続けた。言葉の束がほどけ出すような気がした、という。
すると今度は相手が、つまり徹が、
あ。
と言った。
ひとつ呼吸があって、
僕、子供かもしれないって思ってました。
と徹はなぜか感心するように言った。
あ、違うんです。
と美和は答えた。
子供じゃ……。
と言ったのは二人同時だった。それぞれに言いたいことは異なっていた。
ゆずりあって黙り、互いに相手の息の音を集中して聞いた。
しばらくそうしていた。相手の無言にじっと耳をすますことが、すでに両者にとって懐かしい行為になっていた。美和も徹も留守番電話のテープを通して、何度もそうしてきたのだ。
やがて美和はもう一度、ごめんなさいと謝り、間違い電話をかけたら留守番電話のメッセージに使っている音楽が気になり始めてしまって、と言った。
徹は即座に曲名を答え、どんなアルバムに入っている曲であるか説明をした。園田さんに借りたものであることまで言おうとして、徹は口をつぐんだ。
すると、その日三度目の、
あ。
という声が美和の小さな口から飛び出した。
知っていたのだった。前日、リビングルームで見ていたのに、かけそこなっていた。それはやはり父の持っていたレコードの中の一曲で、まだ父が家にいた頃、何度かかかっていたのだ。
それが大きな意味のある偶然だと美和は感じた。けれども、それを華島徹にどう話せばいいものか、そもそも話すべきかと美和は迷った。
美和は黙り込んだ。
その沈黙を徹は苦痛に感じなかった。
徹も黙っていた。
その沈黙に美和も耳を傾けていた。
ついにその日、三十分ほど二人は何も話さず、しかし受話器を握り続けた。
じゃあ、また明日とかに。
と徹が言い、
うん。
と美和は答えた。
電話を切ったあと、徹は相手の名前さえ聞いていないことに驚くとともに、そうであることに深い満足感を抱いた。
美和は階下に静かに降りて『just the two of us』をカセットテープに録音し、それを何度も自室で聴いた。
9-1 金郭盛(韓国)
- 我々の恋愛 9-2
-
『BLIND』9-2
それからというもの、美和は何かを忘れたような気持ちにとらわれた。入社研修の予定表を何度も見直したし、提出書類の点検もした。母からの頼まれ事がなかったか、キッチンの横を通る度に冷蔵庫に貼られたパネルを見るのだが、壮子の乱暴な文字は姉・香に貸した千円の返却を要求するのみだった。
胸に空洞が出来ていた。失った部分があるのだが、それが何かわからなかった。空洞をのぞき込もうとすると周縁がキュッと閉じた。すると痛みに似た感覚が美和に生じた。美和はその痛みに執着し、かえって繰り返し失ったものを探した。
同時に、忘れたもの、失ったものが不意に現れ、自分を罰するのではないかという漠然とした怖れもあった。リビングでノートに新しいパンの構想を書きつけている時も、“女子大生たちがひなびた温泉旅館を建て直す”という内容のテレビドラマシリーズ(『湯けむり女子大生騒動』と判明)を母とぼんやりと見ている合間にも、電話を切ってからめっきり増えた鼻歌のとぎれた瞬間にも、美和は急にひどく罰せられるような気持ちになった。
一方、徹は失ったものを明確に知り、苦しんでいた。前の晩の数分、徹は相手の名前も電話番号も聞かなかったことに満ち足りていた。何もわからないのに自分たちがつながっていたのは奇跡だと思った。
だが、蛍光灯の明かりの下で灰色の電話機KL-B200を見た途端、徹は巨大な不安に包囲された。自分からかけることが不可能なのだった。黄色くぶ厚い電話帳を開いたところで自分は相手の名前すら知らない。
二度とかかってこないのではないか。
徹はそう思った。もともと気まぐれにかかってきた電話だった。声を聞けば知らない人だった。会話がはずんだわけでもなかった。むしろ沈黙が支配していた。考えは悪いほうにばかり向いた。
徹は無言で小さなソファの上に座り続けた。電話の内容を幾度も反復し、彼女の声を思い出してみた。たった一人につながれないというだけで、あらゆる連絡網から断絶されている気がした。世界の中で孤立していると思った。
あくる日は土曜日で、晴天だった。「あらはばきランド」には予想以上に客が入った。徹は「レイン・レイン」の操作室にこもり、通常より多く『サンダーフォレスト』に嵐を起こした。
その間も徹はずっと考えていた。
二度とかかってこないのではないか、と。
9-2
ヘレン・フェレイラ(米国)
ルイ・カエターノ・シウバ(ブラジル)
- 我々の恋愛 9-5
-
『BLIND』9-5
それからというもの、美和は何かを忘れたような気持ちにとらわれた。入社研修の予定表を何度も見直したし、提出書類の点検もした。母からの頼まれ事がなかったか、キッチンの横を通る度に冷蔵庫に貼られたパネルを見るのだが、壮子の乱暴な文字は姉・香に貸した千円の返却を要求するのみだった。
胸に空洞が出来ていた。失った部分があるのだが、それが何かわからなかった。空洞をのぞき込もうとすると周縁がキュッと閉じた。すると痛みに似た感覚が美和に生じた。美和はその痛みに執着し、かえって繰り返し失ったものを探した。
同時に、忘れたもの、失ったものが不意に現れ、自分を罰するのではないかという漠然とした怖れもあった。リビングでノートに新しいパンの構想を書きつけている時も、“女子大生たちがひなびた温泉旅館を建て直す”という内容のテレビドラマシリーズ(『湯けむり女子大生騒動』と判明。八十年代中盤から日本では女子大学生がもてはやされた。ちなみにこの時期くらいを境にして対象は女子高生になる)を母とぼんやりと見ている合間にも、電話を切ってからめっきり増えた鼻歌のとぎれた瞬間にも、美和は急にひどく罰せられるような気持ちになった。
一方、徹は失ったものを明確に知り、苦しんでいた。前の晩の数分、徹は相手の名前も電話番号も聞かなかったことに満ち足りていた。何もわからないのに自分たちがつながっていたのは奇跡だと思った。
だが、蛍光灯の明かりの下で灰色の電話機KL-B200を見た途端、徹は巨大な不安に包囲された。自分からかけることが不可能なのだった。黄色くぶ厚い電話帳を開いたところで自分は相手の名前すら知らない。
二度とかかってこないのではないか。
徹はそう思った。もともと気まぐれにかかってきた電話だった。声を聞けば知らない人だった。会話がはずんだわけでもなかった。むしろ沈黙が支配していた。考えは悪いほうにばかり向いた。
徹は無言で小さな赤いソファの上に座り続けた。電話の内容を幾度も反復し、彼女の声を思い出してみた。たった一人につながれないというだけで、あらゆる連絡網から断絶されている気がした。世界の中で孤立していると思った。
あくる日は土曜日で、晴天だった。「あらはばきランド」には予想以上に客が入った。徹は「レイン・レイン」の操作室にこもり、通常より多く『サンダーフォレスト』に嵐を起こした。
その間も徹はずっと考えていた。
二度とかかってこないのではないか、と。
9-5
ヘレン・フェレイラ(米国)
ルイ・カエターノ・シウバ(ブラジル)
- 我々の恋愛 10
-
『恋とは何かをあなたは知らない』
恋とは何かをあなたは知らない
ブルースの意味を知るまで
やがて失うその恋におぼれるまで
恋とは何かをあなたは知らない
唇が痛むのをあなたは知らない
キスをするまで
その代償を支払うまで
ときめいて そのときめきを失うまで
恋とは何かをあなたは知らない
あなたにわかるだろうか
虚ろな心がいかに追憶を恐れるか
涙の味を知った唇たちがどうやって
キスの感触を失っていくか
成就せず滅しもしない恋のせいで
どれほど胸が焦がれるかをあなたは知らない
眠れぬ嘘で夜を明かす日々が来るまで
恋とは何かをあなたは知らない
(日本語訳・佐治真澄)
『20世紀の恋愛を振り返る十五カ国会議』 本会議開場時BGMより
http://www.youtube.com/watch?v=y4XJdYk2DIA
- 我々の恋愛 11-1
-
3月14日
妹に好きな人が出来たのではないか。昨日も一昨日も、正確には四日前の午後九時を過ぎた頃から毎日、隣で一時間ほどtelをしている。日に日に夜遅い時間帯になる。言葉はわからないが、声の調子がはしゃいでいて少し気取っている。日が経つにつれ沈黙が長くなっていく様子が友だちのtelと違う。黙っている時、相手が話している気配もない。二人は耳を傾けあってる。彼女、私には決して相談しないだろう。
朝は納豆、生卵、海苔、油あげとワカメの味噌汁、きゅうりの浅漬け。母と二人で。妹、起きて来ず。母の一人しゃべり。テーマは節税。聞くふり。
8:32AMのバスで会社。乗車時、前のおじいさんが転びかけたのをとっさに支えたら左足から乗ってしまった。何年ぶりだろう。スキーで右足を折って松葉杖だった時以来。それが気になってか、エンジン音がいつもより高く聞こえた。最近耳がちょっとおかしいかも。
社では一日パソコン仕事。迫田さん(今日は不機嫌だった。生理だろうか)が部長に提出する書類、インドネシア工場からのネックレス完成品がどんなペースで輸入出来るかの見積もりを手伝う。細かい計算に気をつかった。昼は陽華亭、長崎ちゃんぽん(本日75点)。
午後、「不要な数字の確認(迫田さんはそう言った)」に私がこだわり過ぎるとクレームをつけられた。が、工場からは1~2%の欠損品が来る。特に月をまたいでのレポートに月末状況の記載漏れが多いのは事実。それを正しい範囲で予測出来るのならするべきと反論した。迫田さんはなにしろ不機嫌なので、常日頃の私の態度にまで文句を言い出す。
つきあいが悪いと言う。人を見下して黙っていると言う。ふたつのことが同時に出来ないと言う。話しかけづらいと言う。言うまいと思ったが、思わずそれは全部迫田さんのことじゃないかと指摘した。すると迫田さんは目を丸くして、珍しいと言った。遠野さんにもそんな声が出るのか、と。私はさほど大きな声を出したつもりがなかったし、論点がずれている。拍子抜けがして、話しているのがバカらしくなった。
残業なし。会社飛び出る。19:02PMバス。希山停留所付近、大幅な道路工事が始まっている。季節外れ。冬にまとめればいいのに。
夕食は家で。母と妹が作った春巻(具の水切りが甘いのか揚げたてでも皮がしなしなしていた。60点)、かぶのカニあんかけ、油あげとワカメの味噌汁(朝に同じ)、もやしのナムル。私が父の椅子に座るようにしてから三ヶ月(母は今日もちらっと責めるようにこちらを見た)、家の中に空白がある感じは多少埋まっている。凍りついていた家族が溶けて動き出したようにも。ただ、その変化について二人に話すつもりはない。
観察。食卓での妹は気が急いていた。いつもノロノロ食べるのに春巻を自分の分だけ二本、先に取った。母の皿にも二本、一度に乗せて嫌がられた。テレビでは『金八先生』が印度カレーの話をやっていたが、妹は毎週録画するほど好きな番組を注意力散漫にしかみなかった。早くみんなに食事を終わらせて部屋に入れてしまいたいようだった。
妹はたくらみに気づかれているとはまるで考えていない風で、目は浮ついているし、急ににやにやしたりした。ひとつのことしか頭にないような顔で、エサにばかり熱中している小動物めいていた。彼女が昔飼ってたハルを思い出した。よくしゃべるインコ。得意なセリフは「イラハイ、イラハイ」「タケヤ、サオダケ」「ミワチャン、カワイイ」だったな。すべて母が仕込んだ。
『金八先生』が終わってすぐ、リモコンをとって私が観てない先週分をわざと再生してみた。本気で観る気などなかった。妹の顔はみるみるくもり、簡単にいらだった。やはり彼女は私たちがいつまでもダイニングにいると都合が悪いのだ。かわいらしいこと!
ところがそんな事情には一切かまわず、母はドラマのテーマが男女の違いだったと言い出し、カイコのオスメスの話を始め、結果いつものエピソードの連続になった。ビデオを止めて、話に無言でつきあう。
妹は「桐生とカイコの意外な関係」のあたりでキッチンに入り、片づけものをして食後の時間短縮をはかった。常日頃、作ることしか面白くないと言って片づけは主に母か私にまかせるのに。妹はお茶さえ出そうとしなかった。私は率先してダイニングを出、シャワーを浴びた。終わってすぐに母にも入浴を勧めた。
私は、それが誰であれ妹が相手とうまくいけばいい、と思っている。本気で。私だってあの日までは二日に一回、彼にtelしていた。わずか3分強ずつだったけれど。簡潔に4分以内と私たちは決めていた。時間を守るゲームのふりをした。本当の理由から目をそらして。
母、妹は相手が異性だとはついに気づかなかった。何かの事務連絡くらいに思っていたはずだ。それは半年も続いた。そして半年しか続かなかった。やめよう。またこの話だ。
(遠野香の日記より許可を得て抜粋)
- 我々の恋愛 11-2
-
『BLIND』9-6
二人は話した。
柄が白黒反対のシマウマの突然変異が生まれても誰も気づかないのではないか、と二人は言って笑った。
教科書の誰に落書きをしたかと徹は言い出し、自分たちを含めて人はなぜチンギス・ハーンの顔の絵に何か付け足してしまうのかを美和と話しあった。
白封筒の糊づけがうまくいった時の満足感が他の何とも違うと美和は話し、徹は糊づけのあとに〆(日本独特の封緘の記号)を書く時が特別だと言った。
大根の辛さが苦手で自分は子供っぽい味覚を持っているのではないかと徹は話し、美和は自分はピーマンが苦いと思うと話した。
初恋は二人とも中学生の時にしていて、どちらもしごく恥ずかしい顛末だったと告白しあった。
月を見るのが好きだと意見が合い、仕事の帰りに駅までの道を首が疲れるほど見上げて過ごすことがあると徹が言うと、そんなに月がよく見えるところに勤めているのかと美和は確かめるように言った。
年齢が違うことはわかっていたが、高校生の頃に熱中していたラジオ番組が同じであることがわかった。
これまで見た中で一番汚い字を書く人の文字の列が死んだ虫の群れを模写した一枚の絵のようだったと美和は話し、徹はその絵が欲しいと言った。
電話口に流れていくことがあるザーッという雑音が心地よいと二人は話した。
留守番電話のメッセージはなぜ自分の声とあんなに違うのだろうと二人は言い、だから君が聞いている僕の声は本当の僕の声よりずっと低いと思うと徹は言い出し、であれば別の声同士が話しているのだと美和が言って、なんだかおそろしいような気がするという結論になった。
切れかけの蛍光灯のチラチラする光が嫌いだと美和は言い、徹は子供の頃そういう蛍光灯だけを近所の空き家の庭に隠して集めていたことがあると言った。
春の眠さは異様で一日の区切りなく眠ってしまうことがあると美和は言い、徹はそれは自分にもあると言ったあと今はどうかと思いきっておどけて聞いてみると、一瞬も眠くならないと美和は生真面目に答えた。
徹の留守番電話に入っていた曲をなぜ徹が選んだのかを美和は知りたがり、徹は園田さんのことをくわしく話したがそれは答えにはなっていなかった。
エイプリルフールで一番気の利いた嘘はなんだったかと話しあい、美和は明日のエイプリルフールどうする?と当日聞かれたことだと言い、その嘘はしかしなんのためについたのだろうと徹は考え込んだ。
自分は歩き方に特徴があると言われると美和は話し、徹は自分は笑い方にあると言われると話した。
冷たいものが総じて好きだと二人は話した。
朝のスズメの声も好きだと二人は言った。
木の葉なら若葉だと意見が合った。
空は秋がいいと話した。
幅の広い川を少し高い場所から見渡すのが好きだと二人は言った。
ファストフード店のセットの組み立て方が男女ながらずいぶん違っていると驚いた。
今までで最もショックを受けたなくしものは読みかけの長編小説だったと美和は言い、タクシーの中につい置き忘れたそれを買い直したが結末がどこか違うのではないかと疑いが消えなかったと付け加え、徹は幼い頃気に入っていた緑色のキャップのことを思い出してしゃべった。
長電話をすると耳の上の方が痛くなると美和は言い、もっと軽く受話器を持てばいいと答えた徹は自分の耳の上も実は痛いのだと打ち明けた。
BGMがいらないと思う場所はどこかという話になり、海水浴場と徹は答え、美和は山を行く電車の中と言った。
巨大迷路(木の壁を高く複雑に立てて作られた迷路の中を人が歩き、出口を探す遊具がある時期日本で流行した)に行ったことがあるかと徹は言い、美和は二度友人につきあって出かけたがどちらもほぼすんなり解けてしまって気まずかったと笑った。
美和は大学で精読したトマス・ハーディの『日陰者ジュード』のあらすじを女性にだらしない男の苦難と略し、徹はただ相槌を打つだけで読みたくはならなかった。
電話をしながらコップの水を飲むと受話器に触れてこぼれそうになるのでストローを使うことにしたと美和が言い、徹はペットボトルの中身を入れ替えて使おうと思うと言った。
徹は今聞こえる君の声の少し鼻にかかったところがチャーミングだと誉め、美和は私こそそう思っていたと大きな奇跡を前にしたかのように言った。
会ったこともないのにと徹は言い、会ったこともないのにと美和も言った。
二人とも高校までの教室ではいつも前の方の席に座っていたことがわかり、一度後ろに座ってみたかったと嘆いた。
雨が降ってきたと美和は言い、そっちはどうかと聞くと徹は降ってもいないのに降っていると答えた。
電話をしていても相手の声以外のことは何もわからないけれど、自分としか話していないことははっきりわかると言い合った。
二人は長く話した。
- 我々の恋愛 11-3
-
『BLIND』9-7
あらはばきランドの特設ステージ前は閑散としていた。
1994年3月19日。
ステージでは社長・水沢傳左衛門の肝いり企画、『縄文デイ』が開かれていた。ちょうど3年前の3月から始まったものだった。
一ヶ月の期間中、ランド内のイベントスペースでは連日、日本の縄文時代、人々はこう生きていただろうという推測を大胆にショーアップし、ニセモノの毛皮を着た男女が5人ほどでテーマ曲“狩り、狩り、狩り”を始めとした3曲を歌い踊り、土器を叩くことでリズムを刻み、イノシシ役の男性をステージ上で追いつめて仕留め、様々な声で雄叫びを上げる他、高度な文明があった証として土をこねて食器を作る所作をし、火を起こす真似事などするのだったが、ステージに呼び込まれた来場客の子供たちはたいてい泣くか、つまらなそうな顔で遠くを見た。縄文時代の本物の矢じりを持たせてもらうという特典があったものの、それを喜ぶ子供は3年間で一人もいなかった。
けれど園田さんはその『縄文デイ』のイベントを高く評価し、事実出来る限り『レイン・レイン』の作業の合間にショーを見に行ったし、特にイノシシが捕まるタイミングでは必ず奇声をあげたが、数回付き合わされた僕にはそれがネイティブアメリカンの行動に見えて仕方なかった。
その日も僕は昼食後、『縄文デイ』のセカンドステージに誘われた。園田さんは食堂で「話もあるし」と言った。僕は話ならたくさんある、と思った。ステージ前に行くと、輪になった男3人が女2人の周囲でとびはねていた。音楽はハウリングを起こして耳に痛かった。
まだ寒い日中で、日が当たるのはステージだけで他は暗かった。園田さんはズボンのポケットに手を入れたまま、背を丸めて演し物を見ていた。僕はその隣に立っていた。縄文人(男)の一人がリズムに合わせて槍を突き上げ、もう片方の拳で胸を叩いて自らの筋肉を誇示し始めたのと同時に、園田さんは少しだけ僕の側に顔を向けて言った。
「徹、なんかあったのか?」
「はい?」
と僕は反射的に聞き直した。
「最近」
とだけ園田さんは付け加えた。僕は何を言われているか確信を持ちながらも、もう一方で気づかれているはずがないと思っていた。
園田さんはそのまま黙り、ステージを注視するかに見えた。自分が持ちかけた話を早くも忘れてしまったのだろうか。あっけにとられて園田さんを見た。すると、園田さんの頭の上に白い靄がただよっていた。知っているのだ、と僕はなぜか観念した。
「おかしいですか、近頃の僕は?」
と諦念の中で僕は言った。白状しているに近いニュアンスだった。園田さんはイノシシ役の男性が舞台袖から出てくるのをそっけなく確かめてから答えた。
「おかしいね」
僕は空を仰ぎ見た。園田さんの言葉を待とうと思った。実際、少しして園田さんは続けた。
「そもそも鼻歌が頻繁だよ、徹。どれも影のあるラブソングのかけらだ。しじゅうお前の唇から聞こえてくる。いい曲ばっかりな。だからって悲しい恋をしてるわけじゃないと俺は思う。そもそも恋が憂愁を湛えたものだということくらい、特に初期症状がそうだというくらいは長らく恋人のいない俺にだってわかる。フォーッ!」
最後はイノシシを仕留めた縄文人への賛美になっていたけれど、園田さんは僕の状況をずばりと言い当てていた。数日の間盗聴されていたのではないか、と思うくらいだった。
「相手は?」
園田さんは調子を変えずにそう言うと、僕には一切目を向けないままきびすを返して『レイン・レイン』の方に歩き出した。ショーのクライマックスと園田さんが考えている場面はもう終わっていたのだった。というより、ステージに上げて矢じりを触らせるべき子供が客席に一人もいなかった。観客は園田さんと僕だけだったのである。
気づけば、園田さんはすでに数歩遠くに行っていた。僕は追いかけそこね、視線を空に向けた。“縄文デイ 原始の力”と白地で書かれた小さな赤い風船がステージの上空に飛んでいた。園田さんはこちらに背を向けて去りながら、今度は大声で言った。
「相手は誰だ?」
園田さんはどうしても知りたいのだった。知っている女性ではないかと勘ぐっている可能性もあった。ほんの何分か前まで大人として見守ってくれていると感じたのだが、実のところ単に猛烈な好奇心なのではないかと僕は思い、そう考えるとむしろ気持ちが軽くなって小走りに園田さんの横まで行くと、右耳に吹き込むようにささやきかけた。
「知りません」
「え?」
「園田さんの言う通り、僕は恋におちていると思います。でも相手がどんな人か、いや中身はよく知っているんです、知りあって数日でこんなにわかり会えるのかってくらいに。でも相手がどんな顔のどんな人か、名前もまるでわかりません。知らないんです。電話でしか話したことがないから」
園田さんは許しがたいことを聞いたというように目をむき、一度大きく息を吐くとさらに早足になった。僕は咎められると思い、それに全力で反駁しなければならないと考えて自分も歩を早め、園田さんの右横にぴたりとついた。左に『メリーゴラウンド』、右に『カーライド』のある子供向けゾーンを抜けて行きながら、園田さんは怒鳴り声で言った。
「面白い」
僕は答えるべき言葉を失った。園田さんは聞こえなかったと思ったのか、もう一度怒鳴った。
「面白そうな恋だ」
結果、僕は事情をあらいざらい『レイン・レイン』の操作室の中で話した。僕はその日まで、自分に何が起こっているかを他人に話すべきかどうか迷っていた。けれどすべてを話し終えたあと、打ち明けるなら園田さんしかいなかった、と思った。きっと本当は、誰かに早く言いたくてたまらなかったのだった。
お前からの相談に対して俺が言えることは、と園田さんは前置きをした。僕は相談をしたつもりなどなかったから、まったくの勘違いだった。だが、そういうずれ方こそが園田さんに恋を打ち明けることの気楽さにつながっていた。
「平凡な恋に向かえ。そのままおかしなシチュエーションを続けていても発展はないと思うぜ。だから今夜誘えよ。どうせ電話は来るんだろ? 明日会いたいと言うんだ」
「明日? どこに住んでるかもわからないのに、ですか?」
「お前が聞かないから悪いんだよ。だから相手も聞けない。地上を離れた天使みたいなお付き合いはもうやめるんだよ、徹」
園田さんは白黒のモニターを見上げてさらに言った。
「人間らしく平凡に行け」
そして目の前の操作パネルをあちこち手際よく押し、全館に強い雨を降らせた。
9-7報告者
故アピチャイ・ホンターイ(タイ)
- 我々の恋愛 12
-
件名 親愛なるカシム-さん-
送信者 島橋百合子
受信者 カシム・ユルマズ
受信日時 2001年8月11日
もうユルマズ様とは書きません。昔通り、カシムさんと呼びます。あなたの好きな「さん」付けで。
さて、でも私はこれ以上何を書けばいいでしょう? そして、何を書くべきかわからないのに無性に何か書きたいと思うのはなぜでしょう?
あなたのような大詩人に抽象的な美しい言葉を書き送る能力が私にはありません。だからカシムさん、具体的な思い出だけをまた思いつくままに書かせて下さい。
あなたが祖国にお帰りになった1953年の暮れ、私は本当に寂しく思いました。あなたは気づいていなかったとお書きになっていますが、私はずいぶん積極的に感情をあらわしていたと記憶します。
私は港で涙を流しました。鯨のような黒くて大きな客船の前で。私はあなたの腕をつかんでなかなか離さなかったはずです。十九才の私はあなたの胸の中に飛び込んでしまいたかったのです。でも、それが恥ずかしくて出来なかった。腕をつかんでいたのはあなたの帰国を止めたいのと同時に、自分の行動を抑えるためでもありました。
あのあと、私は何通か手紙を習いたての英語で書きました。けれど、すべて出さずに机の中にしまい込んだ。今でもその手紙を私は持っています。
文字の中にあるのは、異国の青年への憧れどころではありません。若くて未熟な私が、失ったものを悔いる悲痛な思いです。
私はしかし三年後、父の会社に勤める男性と恋におちるのですから、青春というのはまことに気持ちのうつろいやすい季節です。私たちは一年ばかり交際をし、迷いなく結婚しました。素晴らしい伴侶でした。優しくておおらかで、ちょっと馬鹿で背の高い人でした。
でしたとばかり書くのは、もうおわかりだろうように彼が今はいないからです。神はわずか五年で私から彼を奪いました。貿易の仕事でオランダと日本を行き来していた夫は、かの地で病にかかり、私が駆けつけるのを待たずに亡くなってしまいました。私と、まだ幼かった一人娘を置いて。
私は夫のないまま日本の高度成長期を見続けました。父の会社はみるみる大きくなり、経済的には私にはなんの心配もありませんでした。日本は公害をまき散らしながら、けれどずんずんと一人の巨人が歩くような音を立てて豊かさへの道を突き進んでいきました。
七十年代の熱い政治的な期間を、私は四十過ぎの落ち着いた身の上で過ごし、ただ街頭デモには何回か参加をしました。娘のことだけを考える私は日本がよい国であることを願い、そのためならどんなものとも戦おうと思ってきましたし、そうしてきたつもりです。その後の八十年代も九十年代も。
そしてカシムさん、私もすでに七十才に近いのですよ。あなたはご自分ばかり年をとったようにおっしゃいますが、私も同じ地球で同じ時代を生きてきたのです。
ですから私にも孫がいます。樫という名前で、それはあなたも当然御存知の、常緑で美しい葉を茂らせる頼もしいオークのことです。名前の通り、樫は立派な青年となり、今は海外ボランティアに出ています。
カシムさん、もうおわかりでしょう? 私はあなたの名前の一部を孫に与えたのです。まるであなたがザムバックという名をお孫さんにつけ、それがトルコの言葉で百合をあらわすように。
覚えていらっしゃるでしょうか、あなたが神戸で私に下さった百合の形のペンダントを。あの時、私はザムバックという言葉を教えていただきました。あのペンダントを、私は今の今まで宝物として大切にしてきたのですよ。
だからメールを読んで、とても不思議な偶然だと思ったのです。いや、偶然ではなくて、これは人生も最後の方に至った人間に特有の、若き日々への強い追憶から来ているのかもしれない、と。少なくとも、確かに私はあなたを思い出して孫の名前をつけたのですから。
もちろん私は夫を愛していたし、その思いに変りはありません。けれども初恋をした頃の自分を大事にしたいとも考えています。あの神戸、あの時代、あのあなた、あの私を。
カシムさん、あなたが国際的な詩人の会合で来月ニューヨークにいらっしゃるのを私は知りました。俳人の古い知りあいが自分の欠席をたまたま私の目の前で残念がったことによって。
もしもあなたが、今度は私たち双方にとっての異国の地でゆっくりランチなどおとりになるつもりがあれば、どうぞ教えて下さい。なぜならニューヨークには今、私の樫が仕事で滞在しているからです。私はいずれ、孫に会いに行こうと思っていたところでした。
ばったり空港で会うという驚くべき偶然、そのあとすぐにあなたの渡米を知るという偶然、そこに自分の孫がいるという偶然を、私は運命のような必然としてひととき味わえれば、と夢みています。ただし、あなたはお忙しい身の上、無理にとは申しません。
けれどカシムさん、以下は脅し文句のようになりますが、私たちにだって死期はあるのですよ。悔いることをより少なく余生を送りたいと考える私は、だからこそあなたにこんなメールを書いたのです。
私もずいぶん長く書いてしまいました。拙い英語で齟齬が生じないか、前回同様不安です。
草々。
百合子より。
- 我々の恋愛 13
-
『BLIND』10-1
電話口で美和は息をのんだ。
その言葉が相手から来ないと思ったことはなかった。自分から言ってもおかしくなかった。
それでも美和の心臓は飛び上がるように動いた。
ついにその時だと思った。
数秒の沈黙に徹はとまどった。言ってしまうべきではなかったと後悔し、アサリのボンゴレの話に戻る方法をとっさに探した。しかし、そんなものはどこにもなかった。
会えないかな、という言葉が発された瞬間に二人の無邪気な遊びは終わったのかもしれなかった。責任のない場所で誰でもない人物として存在出来る長い自由時間は途切れた。
徹の脳裏にヒビの入った二人の男女の金属の彫像が浮かんだ。それは錆びていた。だが同時に、徹の体の奥で地上の魚のように跳ね回っている感情があった。会いたいと思う心、あらがえない欲望、そして会えるという期待だった。
会いたいの?
と美和がようやく言った。
甘えるような声だと徹は感じた。
だが、美和には脅えるような音色だった。
窮地に追いつめられたと美和は思い、その場しのぎのように口から問いを漏らしたのだった。そして、「うん」と答えられて逃げ場はもはやないと感じた。
会えないとか、会いたくないという選択肢はなかった。自分も会いたいと思っていた。
けれど、美和は恐れてもいた。自分を醜いと思ったことはなかったが、だからといって容姿に特別な自信があるわけでもなかった。それまで延々と話をし続け、興味の対象やユーモアや道徳観念がよく似ていると思ってきた相手に、実際の自分がどう見えるかまったく想像が出来なかった。
落胆、という言葉が美和の頭の中を占めた。
何か徹が言っていた。
え?
と美和は悲鳴のように聞いた。
名前、教えて欲しいんだ。
と徹は言っていた。せきを切ってあふれ出す好奇心にあらがえなかったのだった。口に出してみて改めて、二人が避けてきたことが自分たちを悲劇に近づけるのではないかと徹は予感した。
だが、引き返すには遅過ぎた。徹は先へ進んだ。
僕は華島徹。華やかな島に、徹底的の徹。
その漢字を思い浮かべてみながら美和は、同時に自分は嘘をつくかどうかに迷った。仮名を使うことは、それまでの数日の間に何度か考えていた。けれど徹の素直な様子が美和にそうさせてくれなかった。ただし、当時の再現であるこの文章の中では仮の名である。
あたしは遠野美和。
と美和は言った。
二人は歩み寄った。
遠い野原に、美しい和の国の和。なんかのんびりした名前でしょ。
美和……ちゃん。
と徹は復唱した。
そう。
と美和は言い、すぐに
徹くん。
とつぶやいた。独り言だったと美和は言っている。
だが、徹は何か語りかけられたと思った。
何?
と徹は聞いた。
二人の対話の調子はそこで逆にかみ合った。
美和はうれしかった。
徹は『美和』という響きが美和の声に合っていると思った。
いつの間にか、二人はアサリのボンゴレが何より春にふさわしい食べ物だという話に戻った。どうやってそうなったかを二人とも覚えていない。ただ、潮干狩りの話題が持ち上がったのは確かだった。日本の子供たちは古い時代から春に遠浅の砂浜に出かけ、そこで貝を採るのだった。
こうして、会えないかという徹の提案は宙に浮いたまま消え去りそうになった。返事は次の機会でもいいと徹は思ったが、美和が電話をかけてこなかったらとも考え、続く話題、やはり春の風物詩のひとつである菓子サクラモチの葉を食べるべきか否か、に集中出来なくなった。
すると、サクラモチはともかく、と言ったのは美和の方であった。
私たち、会えるのかな?
今度は徹が息をのむ番だった。会うことに何か大きな問題があるのだろうかと徹はいぶかしみ、会えない理由を素早く探した。
察して美和は続けた。
会えるのかなって言うのはつまり、どこで会えるのかしらということなんだけど。
ああ。
と徹は安堵した。
えっと、僕は東京の西なんだけど。
と言ってから、徹はその先まで話すべきかわからなくなった。一方、美和はやはり間違いなくそうなのだと思った。彼女は市外局番を知っていたのだから。
わかっていたことでありながら美和は相手がひどく遠いと感じたし、だから自分がいる場所を打ち明けられないと思った。都心まで電車を乗り継いで二時間以上かかると知ったら、徹は自分への興味を失うのではないか。
その徹がささやくように呼びかけてきていた。
美和ちゃん。
うん。
質問が当然あるわけだけど。
うん。
聞いていい?
うん。
君は?
うん?
君はどのへんに住んでるの?
うん。
声は遠くないから、まさか京都とか九州ってことはないと思うんだけど。
うん。
いや、京都でも福岡でもいいよ。遠距離でも。
そこで会話は一瞬ぴたりと止まった。
美和は賭けるように言った。
遠距離でも?
と。
10-1 金郭盛(韓国)
- 我々の恋愛 14
-
タイの恋愛学者アピタイ・ホーンチャーイが故国で悲惨な事故にあう百日ほど前、つまり彼と私が共に日本の事例を調査研究していた折に判明したことだが、1994年3月19日に「あらはばきランド」で縄文デイを見ていた華島徹と園田吉郎をさらに遠くから眺めていたのが企画部の犀川奈美38才なのであった。
犀川は当日の午後、四階建ての本部ビルの屋上にいた。社内で飼っていたハムスターを透明の球体に入れて散歩させたすぐあとのことである。犀川はその屋上からランド全体、またはその西側に連なる小山を見るのを息抜きとしていた。イベント会場にいる華島と園田がこそこそと話をしているのを見つけた犀川はメンソール入りの細い煙草をくわえ、一度大きく煙を吸うと、社の者には絶対に聞かせることのない深いため息をついた。まるで小さな黒い岩をビルの上から落とすかのように。
ため息は華島にも園田にも関係がなかった。それは純粋に犀川の個人的な問題に起因していた。彼女は二年以上、ある変事を抱えていた。端的にいえば、犀川奈美は悪霊と大恋愛をしていたのである。
始まりはもっと前、六年はさかのぼる。犀川は一人の男を愛した。痩せていて羊のような癖毛をした男は時に犀川に暴力をふるい、金を借り倒し、連絡なしに外泊を続けた。だが、犀川は男との関係に固執した。半同棲生活が一年ほど続いたあと、男は忽然と姿を消した。
少ない友人たちにも男のふた親にも弟にもいっこうに連絡がなかった。犀川は警察に捜索願を出して男を待った。自分に男が必要であるように、男にも犀川しかないと思った。二人は傷をつくりあい、それを強く押しつけあい、互いの肉と骨とを癒着させたのだと犀川は考えた。離れられないのだ、と。
亡くなったことにしないと奈美ちゃんが壊れる、と友人たちが言い出した。新しい縁もあるだろうにと心配してくれたのだった。
男が消えて二年後のこと、犀川自身は拒んだのだけれど、ある冬の晩に数人の男女が犀川の家に集まって男をしのぶ会を行った。位牌こそ作らなかったものの、友人たちはテーブルに果物や酒や男の好きだったビーフジャーキーなどを置き、献杯めいたことをした。
犀川はただ黙って儀式につきあった。もしかしてという憂いはあったが、犀川は男が死んでいるとは思いたくなかった。
行方不明になった男が死んだとされたその晩遅く、友人たちがみな帰ったあとのがらんとした部屋でラップ音が始まった。リビングの中央に吊り下げられたバラの形の照明の周囲を小さな破裂音が駆けた。やはり男はこの世のものではないのか、と犀川は胸が潰れるように思い、同時に体の奥が熱く溶けるような幸福感にも貫かれた。男は自分に会いに来たのだと思った。犀川は立ち上がり、音を追って部屋をへめぐった。
気づくと、玄関とリビングをつなぐ廊下の白壁に薄茶色の古い血痕めいたシミが浮き出ていた。シミからはそれより少し濃い色の液体が垂れた。犀川は何度も深呼吸をし、頬を叩き、洗面所で鏡の中に自分を映して正気を確認してから廊下に戻った。シミも液体も変らずそこにあった。犀川はへたり込んで壁に手をつき、しみ出る液体をぬぐって口にした。男の精液の味がした。犀川は太い声で泣いた。息が長く出来ないほどの命がけの嗚咽だった。体から体がごっそり抜け出るように感じた。
いつの間にか、犀川は冷え冷えとした廊下に身を横たえて眠っていた。悪夢が彼女を襲った。眠りの中で女の体は宙を浮き、地に叩き落とされ八つ裂きにされ火にくべられた。目玉をくりぬかれ、舌を切られ喉を何度も鋭利な刃物で突かれた。痛みはきわめてリアルで度々夢から醒めた。
しかし彼女はしがみつくようにまた眠りに向かった。戦いに挑むように、大切なものを二度と失わぬように、女は自分を傷つける世界へ走り込んだ。
それが毎晩だった。光のあるうちに犀川は仕事に出かけ、夕食を外ですませて家に帰った。部屋の中はいつもめちゃくちゃだった。テレビは倒れ、CDは散乱し、メダカのいる小さな水槽の中にスリッパが突っ込まれていたこともあるし、天井には切りつけられたナイフの跡、壁のシミは日々別な場所に現れ、床自体に糞尿じみた臭いのする粘液が溜まっていた。
犀川は生きた男の粗相を片づけるように鼻歌など歌いながら二時間強をかけて部屋を元に戻した。天井の切り跡や壁のシミは翌日には必ず消えたが、犀川はそれでも濡れタオルをよく絞り、男の体に出来た疱瘡を癒すような丁寧さでそこを拭いた。
現象は犀川だけの思い込みではなかった。男の仮の葬式以来あまり招かれなくなった友人の一人、元木和江はある時、地下鉄有楽町線の駅構内でばったり犀川に会い、驚愕して彼女の腕をつかんだ。
「奈美、その腰に憑いてる犬は何?」
元木によれば犀川の腰回りにぐるりと一頭の茶色い中型犬が張り付いており、その他にもよく見れば赤い老婆や厚い眼鏡の青白い青年などが背中に覆いかぶさったり、頭の上によじのぼったりしていたのだという。
あたしも霊感の強い方ではあるけれど、と元木は私たちに向かって目を丸くしたものだ。あそこまではっきりと霊の憑いた人間を見たことがない、と。
元木以外にも、特に茶色い中型犬の存在を見てとる者は少なくなかった。犀川が街を歩いていると横断歩道で、スーパーマーケットの冷凍品売り場の前で、タクシーの後部座席で犀川は何度となく話しかけられた。一刻も早くその犬の霊を祓うべきだと彼女は忠告された。私が今から祓おうと池袋駅のホームで言い出した僧侶もいた。犀川の肩をつかんで早くしないとあなたは死んでしまうと言った女性もいた。
先に名を挙げた元木和江はそのまま犀川の家に押しかけた。部屋に入った途端、元木もまた怒り狂うような激しいラップ音を聞き、目の前の壁にシミが浮き出ては消え、小刻みに停電したり触ってもいないラジオが大音量で鳴ったりするのを体験した。悲鳴を上げ続けた元木の声は一時間もしないうちに嗄れてしまったのだそうだ。
だが犀川は絶対に霊を祓わないと言った。中型犬も老婆も青年も男に関係した何かなのだ。むしろ自分は男自身にとり憑かれる日を待っているのだし、毎晩のむごい悪夢こそが男からの愛の濃さだと知っている、と犀川は澄みきった目で元木にそう話した。その時の声の優しさはまさに聖母というべきものだった、と元木は語っている。
酒乱の男に尽くす女のように、犀川は不可思議な現象にこそ喜びを感じていたのだった。コップが浮き、壁に叩きつけられて割れ、破片の断面から血のようなものがにじみ出てくると、犀川はそれを口の中に入れた。キッチンに飾った切り花はひとつずつ潰されたが、女はその潰れた形のままをドライフラワーにして保存しようとした。引き出しが開けられ、中の物をすべて床にぶちまけられれば、その散乱の中に男との思い出の品がないかひとつひとつつまんで眺め、あるとそれを写真に撮った。
元木和江に再会した日からだと犀川は記憶しているが、悪夢の中に茶色い中型犬が出てくるようになった。犬はまずさかんに骨を欲しがった。犀川は男がどこかで圧死したのだと思った。骨を粉々にされて死んでいるからこそ、男はかわりの骨を求めているのだ、と。犀川は泣いた。男の無残な死に方が可哀想で仕方なかったし、そのことを犀川に訴えるようになった男により一層の愛しさを感じた。
やがて犬は遠吠えを始めた。家がきしむような、不安定な長い声だったという。犀川はそれを男のオペラだと直感した。男は犬に変容して歌っている。自分がそれを聴く以外、誰が耳を傾けるだろうか。犀川は夢の中で腕を切り落とされ、足の裏に真っ赤な焼きごてを押しつけられ、喉の奥に金属の棒を突き込まれながら目をつぶり、男の歌劇を聴いた。男は犀川への未練を歌っていた。
ただ、行方不明になるまでの男の趣味はブルースギターであり、オペラを好んだ形跡などどこにもなかった。むしろオペラは犀川の好みだった。男がオペラを歌うなどということは、友人たちからすれば絶対にあり得ないことだった。
どうやらそのようにして、犀川奈美は悪夢を手なづけつつあった。悪霊自体そうだったといえる。霊の引き起こす無意味な現象のひとつずつを、犀川は例外なく自分への愛を基本として解釈し、対応し、受け入れた。根負けしたのは悪霊の方だったかもしれない。
したがって、犀川が華島徹や園田吉郎を屋上から見てため息をついた頃には小康状態が訪れていた。悪霊の暴れ方にアイデアがなくなってきていたのである。
ありとあらゆる事態に犀川奈美は素早く最適の処理をした。部屋中に防水処理がしてあったし、割れる素材の小物は捨てられ、ゴムやビニールに変えられた。スピーカーを廃品処分したため、男の残していったステレオはヘッドフォンを通した最大音量を出すのみですっかりポルターガイストの迫力を失っていた。何よりも悪霊は恐ろしさを感じない犀川に落胆の色を隠せないでいたのではないか。やることの規模が小さくまとまり、同じことが夜毎おざなりに繰り返されていたことでそれがわかる。
むしろ、犀川が本部ビルの屋上から落としたため息は、求める刺激を得られない女のそれだったともいえるだろう。悪霊と隠れて過ごした波乱の恋愛の日々が、すっかり落ち着いたものになっていた。もちろん犀川はまだ愛に満ち、男への思いに燃えてはいたのだが。
そして私ワガン・ンバイ・ムトンボは思うのだ。
女に辟易とした悪霊が同志アピチャイ・ホーンターイに憑き、海を渡ってあの大事な人を死に至らしめたのではないかと。その意味では、私は犀川奈美を決して許すことが出来ない。彼女がもっときちんと悪霊に振り回されるふりをしていれば、我々はあの笑顔の柔らかい優秀な恋愛学者を失わなくてすんだのである。
ワガン・ンバイ・ムトンボ(セネガル)
ーアピチャイの思い出とともに
- すっぽん 1-1
-
1-1
俺はすっぽんだ、喰らいついたら絶対離さない。
まったく同じこの言葉が何年かに一度、冬の池の中でかすかな泥をまきあげて動く魚影のように私の記憶の底をぬるりとよぎってきた。
冬の池の中でかすかな泥をまきあげて動く魚影、というのはまんざら比喩でもない。
昨年末、私は八十才近くなった両親と共に父の郷里を訪れ、とうに亡くなっている父方の祖父の墓参りをする流れになった。墓は上諏訪からタクシーで五分ほど坂を上がっていった小さな寺の奥にあり、私はずいぶん前にそこを訪ねたことがあるのをおぼろげに思い出しながら、両親の後ろを歩いた。傘をさすまでもない微妙な雨が降っていた。
乱立する墓石の中で、父はまったく迷わなかった。祖父の墓の前まで来ると、母が、おそらく何度もそうしたことがあるに違いない様子で周囲の墓石について父に聞いた。父はそれぞれの墓をほとんど見ずに、それは誰々の叔父だと言い、従姉妹の誰々ちゃんの墓だと答えながら新聞紙を丸め、マッチで火をつけた。母はおっとりと混乱し、幾つかの同じ墓について同じ質問をした。父はいらだちもせずに同じ返答を繰り返し、小さな火事めいた炎の中に線香をひと束差し入れた。
墓参りのあと、無人の寺の汚れた縁側に私は両親と座った。目の前に池があり、腐った蓮の葉が浮いていた。大人の背丈ほどの松が水面ぎりぎりに枝を伸ばしており、その先に壊れた蜘蛛の巣がぶら下がっていた。季節外れのトンボの死骸が池の端で光っているのが見えた。微妙な雨が微妙な水紋を作っていた。
縁側で休憩を取ろうとしたのは父だった。父はなんの感慨も持っていないような表情で膝に手を置き、空を見たり池を見たりした。母も同じだった。風景とはとてもいいがたいものを目の前にして、私はなぜ両親が黙ってそこに座っているのかまったく理解出来なかった。
やがて、私の視界の端に、ぬるりと動くものが現れた。目をやると池の底で泥が巻いていた。泥の奥に私は黒い魚影を認めた。鯉だ、と思った。祖父の法事で出た鯉のあらいが自分には臭いような気がして食べられなかったことを、急激に私は思い出した。まさにその寺の座敷で、鯉はふるまわれていたのだった。寺は当時、もっと清潔だった。
と、その記憶に重なって、ぬるりと、としか言えない感覚で、あの言葉が来た。
俺はすっぽんだ、喰らいついたら絶対離さない。
冬の鯉の身体のゆらぎが、事実、私の脳の奥からすっぽんの頭を飛び出させたのである。あたかも両親は、それを待って静かに縁側に座っていたかのようだった。
この言葉が私の中学時代、もしくは高校時代のいじめの体験から生まれたことは確かだから、私はこうしたすっぽんの出現を好まない。いったん現れたらそれが再び泥で覆われてこの世から姿を消すように、これまで私は対処してきたのだ。
今、その言葉をめぐって自分が右往左往し始めた理由を、私はまだまったく知らない。
- すっぽん 1-2
-
私は同級生の片足にしがみついている。私を振り払おうとする片足は強く動く。私の背中や後頭部には、拳が打ちつけられたかもしれない。
同じように相手の片足にしがみついた者たちの影を私は思う。筆頭が『金色夜叉』の鴫沢宮だろう。尾崎紅葉の代表作の中で、間貫一を裏切るこの女は何度となく貫一にすがりつく。私の子供時代には、この貫一/お宮の不可解な愁嘆場がよくテレビでパロディにされていた。
お宮は資産家の富山と結婚する流れに逆らわない。だから恋人である貫一は、熱海の海岸でお宮を責める。「一生を通して僕は今月今夜を忘れん」とまでイジケるのだから、すがりつくべきはむしろ貫一なのではないか。子供の私は白黒テレビの中の“二人連れ”を、いつもそういう奇異な思いで観ていた。
イジイジした敗北者がなぜか威張っている。いずれ資産家の妻になる人生の勝利者が、その敗北者の“脚に縋付(すがりつ)き”、振りちぎられて膝頭を血に染めたりしている。
これはまことにおかしな話だ。奇怪なイジケ構造である。
だが、やがて私もまた、同級生に蹴られるのを避けるためにその片足にしがみつき、じっと離さずにいたことで勝利感を得るのだ。この場合、私は敗北者として貫一であり、しかし勝利することにおいてお宮である。
さらにさかのぼって近松門左衛門の浄瑠璃『曾根崎心中』もまた、片足にしがみつく者の話だ。しがみつくのは醤油屋の手代、徳兵衛。遊女お初との仲を裂かれ、勘当され、親友に裏切られて体面を潰され、徳兵衛は死ぬ以外ないと考える。
色茶屋・天満屋の縁の下に隠れる徳兵衛は、お初女郎の着物の裾から出た白い足に頬を寄せたまま、裏切り者の親友が自分を勝手放題に侮辱しているのをひそかに聞く。そして、しがみついたその足をついに首にあてたとき、お初は徳兵衛が首吊り心中をはっきりと示しているのを知るのである。
人形浄瑠璃においては通常、女の人形に足はない。だから、お初の足は特別で異様で艶めかしい。ただし、甲に頬ずりするような型は昔はなかったと聞いた気がする。故吉田玉男の工夫だという話が、私の記憶にはある。
ともかく、ここでは男が女の片足をつかんで離さない。『金色夜叉』とは反対のパターンである。しかも、徳兵衛は足蹴にされない。
ただ、主人公のイジケた気持ちだけは変わらないのである。貫一がイジケていたのと同様、徳兵衛もイジけている。親友に大事な金を貸し、返してもらえず、それどころか詐欺だと言われ、公衆の面前で殴られるのだから。
徳兵衛は鮮やかな反駁とは無縁である。証文をたてに論理的に切り返す術がない。無策無能だとさえ言える。ゆえに粘りもなく、死ぬしかないと一足飛びの結論にはまり込む。
近松は実際の心中事件をわずか一ヶ月後に舞台化したわけで、徳兵衛が死ぬことは絶対であった。あ、この手があった!などと思いつかれても物語が不鮮明になる。近松はトンチ話を書きたかったわけではないのだ。
だから、徳兵衛はお初の片足にしがみつく他なかった。あたかも近松が遣う人形のように、徳兵衛は自由な道を塞がれていた。イジケが高まる中、徳兵衛は死だけを思いつくように仕向けられていた。あ、この死があった!ということになる。
すっぽんと心の中で自称した私にだって、当時、その人形じみた思いつきがあったのではないか。
- すっぽん 1-3
-
早生まれの私はいつも小さかった。
制服を着ている限り、私は必ず列の先頭か、前から二番目に立っていた。それより後ろに、私は存在したことがない。
3月下旬に生まれたので、例えば4月生まれとは一年近く差がつくことになる。子供時代の私にとって、この一年は半分永遠みたいなものであった。
小さな私は少し胸を突かれただけで吹き飛ぶように後方に弾かれた。背中を突かれれば前にのめったし、はがいじめにされれば動けなくなった。
何度も思い出されるのは、濃い灰色のロッカー群で、私はそのロッカーにしたたか背を打つのである。誰かに胸を押されたに違いなかった。小さな私は、半ば変形しかけたロッカーの扉にほとんどめり込むようになる。
私はその、後方へとはたらく大きな力に逆らうことが出来ない。記憶の中でさえも。
私は幾度も宙を飛び、ロッカーの薄い扉で肩甲骨を打った。私の頭はがくんと揺れ、ガラクタをひっくり返すような音が背後から耳に響いた。
今、同級生の足にしがみついているのも、この小さな私である。青黒い制服を着て、私を振り回そうとする力に精いっぱい抵抗し、だがしがみついていることしか出来ないのは、早生まれの私である。
私をこうした小ささの中に閉じこめていた、半分永遠のような一年はいつどこに消えてしまったのか。気づいた時には私の背丈は170センチ近くになり、むしろ周囲が小さく見えていた。思い返せば、大学に入ったあたりから学年と年齢は別々のものになり始めていたのである。
その変化に取り紛れて、私の一年、追っても追っても追いつきようがなかった年月の絶対的な差が私に無断で消去された。閏年式に、私の半分永遠は時の計算の裏側に隠し去られてしまった。
おかげで、同級生の足にしがみつく私は、いまだすっぽんのように同じ姿勢を続けている。前後の時間とのつながりを持たなくなった本シーンは、ゆえに私に帰って来続けるのではないか。
私は逃れられないと思っていた。同級生からの毎日続く力の行使から逃れられず、自分の小ささから逃れられないと思っていた。
私はその自分に呼びかけたいのだが、小さな私に聞く耳はあるだろうか。
- すっぽん 1-4
-
小さな私はまだ中学生であったろう、と今ではずいぶん確かにわかる。なぜなら同級生の足にしがみつき、ふりほどかれまいとする私の頭はいがぐり坊主だったはずだからだ。
高校生の私は髪を伸ばした。もしその私が足にしがみついたなら、同級生は真っ先に髪をつかみ、私をひきはがそうとしただろう。私はいずれ顎を上げざるを得なくなる。上げた顎に上腕部をねじ込まれれば、もう私はすっぽんではいられなかった。
中学生という不安定な時期の中に、同級生も私も固定されていた。私たちは両方いがぐり坊主で、日の陰る廊下の奥にいた。
私は部屋中のすべての物を紙でラッピングしないといられない子供でもよかった。不潔を何よりも嫌い、形状がばらつくことを嫌い、物の色を自分の好みで完全に支配したくて、私は過去のノート類を黄緑色の紙に包み、思い出のみやげの数々をベージュ色の厚紙で箱状に包み、本はすべて色違いの紙に包んで本棚に並べ、椅子の背をピンク色の紙で包み、蛍光灯のスイッチの紐の垂れた先端を小さな白い紙で四角く包み、ティッシュの箱を青くざらついた紙でさらに覆って使いにくくし、あれやこれやと開けては包み、包んでは開けることに一日の労力を使い果たしていてもよかった。
同級生もまた、自分で大事だと感じることを、必ず三回前転をしないと始められない中学生でもよかった。それをしないと胸がふさがってきて呼吸がしづらくなり、やがて母親が死んでしまうばかりか、世界がみるみる焼け焦げて白く消滅することがはっきりわかるので、人前で恥ずかしいのを耐えて同級生は床を三回、転がる。デパートで、親戚の家の客間で、自転車屋の店先で。誰も自分が世界を救っていることに気づいてはくれないのだけれど、だからといって迫りくる破滅を見過ごしにすれば、自分は何より失いたくないものを失ってしまう。だから同級生は勇敢に三回、転がる。そういう中学生でもよかった。
あるいは私は数十年ほどを経て佐渡で一人前の刀鍛冶になり、毎日真っ赤に燃える鉄をハンマーで打って結晶をより細密に仕立て、若い弟子を二人取って作業を見せて習わせ、息を深く整えることこそが刀鍛冶の仕事の最も肝要な事柄だと喝破して朝六時に起きては座禅を組み、ついに清冽な湧き水のごとき剣を一本作り上げてもよかったし、同級生は同じ年月を親の都合で渡ったボリビアで暮してローマカソリックの神父の経験を積み、ある新月の晩に光の啓示を受けたのちに異教的な信仰を持って教団を形成するとみるみる南米各地に信者を増やして弾圧され、たった一冊の、のちに信者にとって聖なる書とされるノートを残した他はまったくの行方知れずで人生を終わったのでもよかった。
だが、私は私でしかなかった。同級生も同級生でしかなかった。私たちは両方いがぐり坊主で、日の陰る廊下の奥にいた。
- すっぽん 1-5
-
私の中で、それはすでに灰青色の、触れれば冷たい彫像である。足元の小さな金箔塗りのパネルには『すっぽん 1974』と黒く荒々しく刻まれている。
私を解放しようとして書けば書くほど、私はこうして重く揺るがぬ存在となっていく。私は記憶の底に固着し、輪郭ごと浮き上がって剥がれ、引き伸ばされ、否定しようのない偉大さにまで膨れ上がって重量を増す。私は悪循環の中にいる。
解放されるべき中学生の私を私1とし、悪循環の中にいる今の私を私2とすれば、私2こそが私1を時間のどん詰まりに追い込み、太らせてそこから出られなくしているのだ。では、私2は私1を忘れてしまえばよいのだろうか。
私2はそうは思わない。記憶からの緊急避難をしたところで、いずれにしろそれはいつかぬるりと魚影のごとく動くからである。完全に忘れることは不可能なのだ。そして、過去を変えることも絶対に不可能なのである以上、私2は私2で可能性のどん詰まりに追い込まれている。私1によって。すでに。
私1が私2にしがみついているのか、私2が私1の足をつかんで離さないのか。しかも困ったことに、どちらもすっぽんであることには変わりない。これはまさに泥仕合だ。
ちなみに、私1、私2というイメージしにくい分類で現在、少なからぬ読者の混乱を招いていると思う。ここはひとつ、中学生の私を私13とし、今の私を私 48にしてみたらどうだろう。いや、それでは年齢表示みたいで面白くない。私は私を更新して連なってきたのだから、私10と私152くらいが適正ではないか。
祖先たるダニエル1と、未来のダニエル25が語りを進める奇怪な長編があったけれども(ミシェル・ウェルベック『ある島の可能性』)、こちらは私10と私152で互いの足を奪い合っている。あまり格好のいい話ではない。
ただ、私152は経験を経た私であり、いかに悪循環の中にあっても、かつてのようにじっと耐えているつもりはない。どこかに事態の突破口はないかと目をこらしながら、しかしどうもしばらく動けそうもないという予測を、私10の脇や腰をこちょこちょくすぐることで伝えるだろう。
今のところ、それが私152から私10への能う限りの、渾身のメッセージだ。
そのくすぐりが。 - すっぽん 2-1
-
第二章
しかしそれにしても、すっぽんとは何であろうか。いや、ここまで私はさかんにすっぽんすっぽんと連呼してきたわけだけれども、本当にそれが「喰らいついたら絶対離さない」動物であるか、私は唐突に疑問を持ったのである。
もしも「喰らいついても、わりに離す」とか、「すぐさま離す」とか、そもそも「喰らいつかない」というような実態があれば、私10は何を糧にして理不尽に耐えていたのかということになる。
実はこの長い文章を書き始める直前、つまり『すっぽん』という題名を思いついた日の午後(2009年2月末のことであった)、私は一度だけ、出先に近かった青山ブックセンター本店に駆け込んで、すっぽんに関する書籍を探してみたはみたのである。
今となってはおかしな話だが、私は天井からぶら下がっている白い板(哲学とか、美術とか、日本文学とかの分類がしてある)に目をこらし、「すっぽん」というコーナーはどこかと、棚の間を小走りになった。そんなコーナーがあるはずもないことに気づいたのは、店の奥の壁まで到達し、振り返って舌打ちをした瞬間である。したがって、チッという舌打ちは「すっぽんコーナー」のなさを呪うと同時に、自分の愚かさを鋭く叱責するものとなった。ちなみに、青山ブックセンター本店には「爬虫類」のコーナー自体なかった。
だからといって他の手段で猛然と調べたわけでもない。私は以来、すっぽんについて何も知らないまま、書き進んでいるのである。今あわててAMAZONに行き、「すっぽん」で書籍を検索してみたら、「もしかして:にっぽん」と出た。もしかしても何も、かなりのあてずっぽうと言わざるを得ない。推測にも適度な範疇というものがあるだろう。
そして、行き当たったのが『 スッポン-習性と新しい養殖法』(農山漁村文化協会)という名著のムード濃い書物で、私は早速注文をしたのだが、残念ながら当然、本日ご紹介するわけにはいかない。余談になるけれども、同時に注文した品はグローヴァー・ワシントンJRの懐かしい名盤『ワインライト』(1980年に出たメロウなフュージョン)だから、注文票を受け取った係の人は相手が都会派か農村派か、まったくわからないだろう。ただなんにせよ、『スッポン-習性と新しい養殖法』が82年刊で、『ワインライト』とほぼ同時期の作品であることだけはここに書き記しておきたい。それは世界の複雑さと奥行きを如実に示している。
さて果たして、すっぽんは「喰らいついたら絶対離さない」のかどうか。二週間ほど前、かなり物知りな友人の家に遊びに行って酒を飲んでいたらやはりその話になり、「雷が鳴っても離さないって言うよね」と友人が言い出した。私もその決まり文句は知っていたので黙ってうなずくと、友人はそのままの勢いで「だけど、そもそも雷が鳴ると離すって前提、変だよね」と言い、一秒ほど考えて「雷はよほどの力を持ってるって前提でしょう」と続け、話柄は雷の方へ雷の方へと傾いていって、じきすっぽんは行方不明になった。
- すっぽん 2-2
-
そのまま数日が過ぎた。友人と私との間で姿をくらましたすっぽんもそうだが、読者諸氏と私の前に見え隠れしていたすっぽんそれ自体も行方知れずのままであった。
おかげで私は『 スッポン-習性と新しい養殖法』も熟読したし(二時間ほどで)、『ワインライト』を何回も聴いた。そして、あちこちですっぽんの話を持ちかけられた。
広東語で「水魚」といえばすっぽんのことだそうである。知人の香港人女性Jさんが、私に会うなり「Iさんは『水魚』という小説を書いてるそうですね」と、ちょっとたどたどしく言ったのである。問題の箇所の発音は“ソイユィ”。Jさんはあくまでも広東語でそこを発音したかったらしい。
「ソイ……ユ、ですか?」
「はい、その小説、internetでやってる」
「あ……確かにネットでは連載してますが」
「そう、それ。『ソイユィ』。昔の自分の話」
私は別の自分がこの世に、特になぜか上海あたりにいるような錯覚におちいり、混乱した。
Jさんのある種のいたずら心から、題名が勝手に翻訳されていたのだと理解したあとも、自分が自分から剥離していく感じが消えなかった。『水魚』という話を書いている自分が確かにいる、という実感がむしろ強まった。
たたしマンダリン(北京語)では水魚の意味がちかいますよ、ともJさんは濁音が抜けがちの日本語と人懐っこい笑顔で付け足した。例えば「水魚の交わり」は『三国志』に出てくる有名な逸話で、それは固い友情を示す。中国本土でも日本でも、水魚を水と魚に分けて考え、分けた上で分け得ないものとする。
だが、その考えを広東語圏には持ち込めない。厚い友情を示すつもりで香港人に「水魚の交わり」を宣言すれば、周囲の喧騒が一気にやむだろう。人気俳優を迎えてノワール映画ロケ中の早朝の灣仔(ワンチャイ)でも、屋台が並び始めた午後の旺角(モンコック)でも、若きデザイナー集団が新事務所を構えてパーティをしている夕方の銅鑼灣(トンローワン)でも、酒と音楽が作り出す乱痴気が最高潮に達した夜中の蘭桂坊(ランカイフォン)でも、一瞬の完全な静寂があたりを支配する。水魚の交わり? 水魚の?
それはつまり、すっぽん同士の交際を指すのである。我もすっぽん、汝もすっぽん。我ら脊椎動物亜門・爬虫網・カメ目。そう宣言することの意味は奈辺にありや、ということになる。そうですよね、Jさん?
まあ、そうですしね、とJさんは私の想像のアンバランスな広がりを多少警戒しながら微妙な訂正をした。広東語で「水魚」と言った場合、それは主に“吸いつかれる側”を指すらしいのであった。ことに金銭にまつわってその比喩はあり、人がすっぽんの生き血を吸って精力をつけようとするかのように、例えばヒモは「水魚」を金づるにして生きていく。喰らいついたら絶対離さないのはすっぽんではなく、逆に広東語圏のすっぽんは喰らいつかれ、離してもらえないのだ。
そこで私が即座に思い出したのが『ワインライト』の聴きどころ、「just the two of us」だったといえば、少々分裂的だろうか。グローバー・ワシントンJRはこのアルバムにビル・ウィザースの名曲を取り入れ、歌わせ、彼を世界的な存在にした。
吃音を持つビル・ウィザースの、歌えば甘く厚ぼったく滑らかな声。しばらく話が脱線することが予想されるが、言葉と歌が異なる次元に属していることの、これは大変な証左なのではないか。
言葉が連続的に歌になれば、あるいは近頃私が考えているように歌こそが先にあって、やがてそれが言葉になったのだと仮定すれば、しかしこの吃音の問題を解決出来ない。語ると吃音が生じ、歌うと生じないという現象から類推するに、言葉と歌の間に何か決定的な違いがあると考える以外にないからだ。私にちかしいある人間も吃音という障害を持っているが、彼女に聞くと“しゃべることと歌うことでは、呼吸が根本的に違う”と言う。だから、歌えば彼女も吃音にはならない。
声を統御するある種の弁を持つ生き物は、この地球上でクジラと鳥と人間のみだそうです。それがどんな弁か聞き忘れたが、先日食事を共にしたベテラン演出家がそう言ったのを思い出す。吃音はその弁に何か関係がないか。クジラは歌うが語らない。鳥もしかり。歌から言葉に至ったとき、機能的に別次元の事件が起こった。そこに吃音が関係ないか。
突然だが、クリスタルの恋人たち、という。「just the two of us」の日本題である。サビの歌詞を私が訳すならこうなる。
二人きり/二人きりでいればかなう/僕ら二人でいれば/砂上に楼閣を築きあげて/たった二人/君と僕
二人しかいない世界の、この幸福感。そして、本当は決して実現しない愛を歌っているのであろう切なさ。しかし、どちらかが水魚であったとしたらどうか。執拗に関係を癒着させるのが僕、もしくは君であったのだとしたら。
上野にすっぽん売り場がある、と教えてくれたのは地下鉄銀座線の浅草行き先頭車両に乗っていた青年であった。黒いダテ眼鏡をかけた痩身の青年は、ずいぶん長くこちらを気にしていたのだが、やがて意を決したように立ち上がり(大きな紙を切り抜いて作った人形が急に糸で吊られたような動きだった)、向かいの席に座っていた私に覆いかぶさるようになって、Iさんですよね?と聞いてきたのである。
ええまあ、そうですがと目をそらして答えると、もしよかったら二駅戻ってみてくださいと青年は言った。上野にすっぽん売り場がありますから、と。私たちはすでに上野を過ぎ、田原町という駅まで来ていた。青年が秘密めかした低い声で手短かに説明するビル自体は、私もよく知っていた。あんな場所にすっぽん売り場などあったろうか。私の好奇心はおおいにくすぐられた。
しかしさすがに、ああそうですかと即座に電車を降りるわけにもいかなかった。メンツというか、まず若者がなぜそのような忠告をしたのかがわからなかった。もし彼がこの小説の読者であったとして(それ以外考えられないのだが)、私がすっぽん売り場を見るべきだと考える彼の思考が謎であった。その謎の思考に軽々しく従うことには抵抗があった。そもそも私はすっぽん見たさで小説を書いているわけではなかった。
ビルに向かったのは、翌朝早くであった。
- すっぽん 2-3a
-
銀座線上野駅から地上に出、たくさんの勤め人と歩調を合わせて信号を渡り、ついにアメ横へ入らんとした私は右手の上野の山をぼんやりと視界の端に入れ、おかげでいつものように後藤明生の『挟み撃ち』の名シーンを思い出したのである。
私はほぼいつでも、駅から山側に渡ったところのいまだに二階が工事中の「聚楽」のあたり、似顔絵師が数人いる大階段や京成上野駅の入り口を見ると、『挟み撃ち』の世界に迷い入った気になる。
主人公・赤木はまさに上野駅前の映画館周辺をうろつき、かつて伴淳・アチャコの二等兵物語の宣伝のために、自分が戦後ゲートルを巻いてバイト仲間と列を作り、模擬的な捧げ銃をしたことを想起する。その想起は小説内の現在とも、戦時中の兄とのエピソードとも自在に行き来しあうから、こちらは多重露光したフィルムを見ているような錯覚におちいる。今読み返しても、時間軸の移動の技巧は他作家を圧倒して凄まじく、しかし小説自体はあくまでものほほんとしている。
ちなみに、私が行方も知れぬまま書いているこの文章もまた、後藤明生の作品、特に『挟み撃ち』をそもそも文体、制作精神の最高峰としているのであった。その小説らしくなさ、文と文の間の隙の大きさ、平気で他人の作品に重心を移してしまう自由さ、それらの要素すべてを含むゆえの真の小説らしさ。
だが、書けば書くほど私には後藤明生の天才的な境地がひしひしと実感され、ひるがえって自分が書くもののある種の小説らしさ、文と文の間の隙の大きさへの恐れ、平気で他人の作品に重心を移してしまう際に無駄な力が入ってしまう不自由さ、それらの要素すべてを含むゆえの真の小説らしさの不在に絶望する以外なくなる。
ああ、もっと自由を、もっと高度な、しかしこわばりのない技術を、私の小説に!
こういうことを考えながらふらふら朝のアメ横を歩いていた私には、当然誰も声をかけなかった。トロ箱を店の前に出したり、道に水をまいたりしているばかりだ。むしろ、この道で小説のことなんか考えているやつは邪魔だとばかりに、私は無視すべき存在として扱われ、むしろこちらが注意深く歩かなければ準備中の品物にぶつかりそうな具合だった。もしも太い黒縁メガネの人が、山と積まれたサキイカの袋の向こうから、おい、ゴーゴリの『外套』を仔細に読んでから出直せとダミ声で言ってくれたなら、私はどれほど心強かっただろう。
ただ、そんな風に後藤明生の霊が爽やかな初夏の朝のアメ横に現れたとしても、私は『外套』を仔細になど読まないだろう。負ける勝負はするべきではないし、後藤明生を遠い目標として目指す者はいい加減が身上でなければならない。
- 思い出すままに 1-1
-
第一章
1-1
出生
1930年(昭和5年9月11日)。長野県諏訪市岡村北沢で父友幸、母よしのの6男として出生。
長男源蔵(1920年生・大正9年)、次男治幸(1922年生・大正11年)、三男巻男(1924年生・大正13年)、四男計男(1926年生・大正15年・昭和元年)、五男武男(1928年生・昭和3年)の兄達は皆健康であった。
母親よしのは2年に一人づつ生みつづけてきたのである。長男源蔵と私とは10才違いであった。私が小学校に上がったときには源蔵はすでに尋常高等小学校も卒業して家業に従事していた。兄弟は兄弟であってもこの差は大きい。私は幼少時に源蔵と親しく話を交わしたという記憶はなく、恐ろしく力の強い頼もしい兄貴という印象でしかない。
父の家業
私が生まれた頃には牛乳処理販売業を営む、○井(井の○囲い)伊藤牛乳店といい、その頃の上諏訪の同業者は大手町の○中(中の○囲い)という牛乳処理販売店が一軒あるだけであった。最初は5頭ばかりの乳牛を家の庭で飼い、母が搾乳していたことを朧気に覚えているが、それはわずかな期間だけだったのではないかと思う。その後は乳牛農家(せいぜい5頭位しか飼っていない小規模農家)から牛乳を集めてきてそれを熱処理し一本一本一合ビンに詰め宅配した。最初は販売先の開拓・集金など父が行っていたようだが、父は源蔵の高等小学校の卒業を待ち構えていてもっぱら自分の手足のように使った。
家業は父母と源蔵が支えていたといっていい。 - 思い出すままに 1-2
-
1-2
父と母について
父友幸は北沢の隣の南沢の小平家の次男で伊藤家に養子として迎えられた。母は同じ上諏訪の湯の脇の小松家(宮大工の次女)から迎えられた。即ち両養子として伊藤家を継いだのである。私は祖父・祖母をまったく知らない。兄達からも祖父・祖母の事を聞いたことがないから私たちが生まれるかなり以前になくなっていたものと思う。
父からは伊藤家の本家は庄屋で米俵に小判が一杯入っていたんだといった話を聞いたことはある。父が養子に入った伊藤家はその分家、小農である。
父は小学生の頃、鉄棒の宙返りなど造作なくやってのける運動神経の持ち主で徴兵検査は勿論甲種合格、徴兵されて中国での戦争も経験している。
尋常高等小学校を卒業してから農業に従事していたが、馬や牛を霧ヶ峰の牧場に連れて行くばくろうの仕事を手伝っていた(兄治幸から一度父につれられて牧場にいった、という話を聞いたことがある)。その頃の農家は牛か馬を牧場から借りて、田の耕しが一段落するとそれを返すために霧ヶ峰の牧場に連れていったのであるが、自動車などない時代だからこの労働はかなり辛いものであったらしい。父がその役を引き受けたものと思う。
これが牛乳処理販売業を始めたきっかけであったと思う。
母は小学校卒業と同時に製糸業の糸紡ぎの女工となった。父の話によれば母は糸紡ぎが非常に上手で優秀な働き手であったようだ。
<いとうせいこう注>
父は自分は祖父も祖母も「まったく知らない」、と言う。しかも「両養子」という形なのだそうだ。伊藤家自体との血のつながりは一切ないわけである。いわば、私自身、ルーツを断たれているも同然で、この事実には少なからぬ感慨を持たざるを得ない。
9人兄弟
私の後に7男幸男(1932年生・昭和7年)、8男安幸(1934年生・昭和9年)、長女寿美路(1936年生・昭和11年)が生まれた。8男1女、最後が女。生めよ増やせよで子沢山の家はそう珍しくはなかったが、続けて男が8人という子沢山は珍しかった。それも皆健康優良児で子供の中で病気になったり入院したものは一人もいない。これは父・母が健康であったこと、とくに母が人並外れた健康の人であったからである。
6人とも人に後ろ指を指されるようなこともなく、学業の方も落ち零れたものはいない。治幸は早稲田大学、安幸は中央大学、武男は海軍兵学校へ入学している。
私の生まれた頃-農村恐慌・自殺者1万3942人
1927年(昭和2年)は片岡直温蔵相の失言から金融恐慌、29年(昭和4年)はニューヨーク株式相場が大暴落し世界恐慌となった。このため輸出産業の中心だった絹の値段が大暴落し製糸業の危機となり、片岡製糸を中心とする岡谷製糸業は倒産の危機に直面した。各地から働きに出てきた女工たちは首切り・失業者となった。米価も暴落し農村恐慌はますます深刻化し、娘の身売り、一家心中、自殺者の急増という事態を招来した。
一方で日本の軍事的膨張が満州を舞台に始められていた。満州地方(中国の東北部)は日露戦争で勝利した日本がロシヤの権益の一部(南満州の利権)を譲り受けたものであった。日本はこの権益の拡張を目指し関東軍が中心となって様々な工作を行い溥儀を担いで執政とする満州国(奉天・吉林・黒竜江・熱河の4省を中心にし首都を新京とする)の建国へと突き進んで行く。
建国の宣言が32年(S7年)、この満州国建国は欧米列強の反感を買い、国際連盟で日本非難決議が25対1で可決され、日本は国連を脱退し、国際的に孤立した。
ところが日本国民は国際連盟の脱退を歓呼の声で支持した。「満州へ満州へ」のもとに満蒙開拓団が結成され、日本人はぞくぞく満州へわたっていった。
- 思い出すままに 1-3
-
狂気の時代の少年期
敗戦まで20年間の昭和は日本狂気の時代であった。
ざっと主な出来事を抽出すれば─
S2年・金融恐慌。4年・ニューヨーク株式大暴落、世界恐慌へ。5年・米の暴落、農村恐慌激化。浜口首相東京駅で狙撃さる。6年・満州事変勃発。7年・満州国建国宣言。8年・国際連盟脱退。9年・ワシントン海軍軍縮条約破棄をアメリカに通告。東北地方の冷害・大凶作で娘の身売り、欠食児童続出。10年・中国共産党、抗日宣言。11年・ロンドン軍縮会議脱退通告。2・26事件、内大臣斉藤実・蔵相高橋是清ら殺害。12年・日中全面戦争始まる。13年・第2次人民戦線事件(大内兵衛ら検挙)。国家総動員法公布。14年・第2次世界大戦始まる。15年・日独伊3国同盟締結。大政翼賛会発足。政党崩壊。総同盟解散。16年・東条内閣発足・12月8日対米宣戦布告・真珠湾攻撃。20年・広島長崎に原爆投下。8月15日敗戦。
こんな時代に幼少時代をすごしたのだが、そんな大変な事が進行しているとは知らず、「日本軍は世界最強」を信じ、「大きくなったら軍人になってお国のために尽くす」ことが男の役割だと考えていた。日本は神国、必ず神風が吹き、勝利する。と信じて疑うことはなかった。
S12年(1937年)高島尋常小学校に入学、諏訪市には小学校はこの高島小学校だけ。クラスは10クラス。1クラス40名として400名が入学した。
8月に「支那戦争」(日中戦争)が始められた。次の2年生の時は「国家総動員法」が施行され、日本は国民挙げての戦時体制に入った。国語の教科書は「サイタサイタ サクラガサイタ」で始まる「サクラ読本」だが、つづくページには「ススメ ススメ ヘイタイススメ」。修身教科書には「キグチコヘイハテキノタマニ アタリマシタガ シンデモラッパヲ ハナシマセンデシタ」があり、最初から軍国少年に育てられていった。先生は「君達は大きくなったら何になりたいか」と質問したが、ほとんどの生徒は兵隊になりたいと答えたものだ。私のクラスに一人だけ「商工大臣になりたい」と答えた者がいて、皆に笑われ非難された。かれは豆腐屋の一人息子で親が日頃から家を継がせようとしていたのではないかと思う。彼は大学教授となったが……。
3年生になったS14年9月はドイツがポーランドに侵入、英・仏が対独宣戦布告し第二次世界大戦が始められた。そして5年生になったS16年12月8日、真珠湾攻撃がおこなわれ、日本はアメリカとの戦争を開始した。
私たちは毎日、大本営発表の各地戦線の勝利を聞かされた。
私の小学校時代はクラス一番の健康優良児、相撲は強くクラスでは西の横綱、グランド一周の徒競走はいつも1番、学年対抗のリレー競争ではいつも代表選手に選ばれていた。デブといわれるほど太っていたし背もクラスの中では低い方であったが、とにかく足は早かったのである。
町の毎年の相撲大会では負け知らず、いつも優勝してバケツや箒などの商品をもらった。
学校から帰るとすぐカバンを放り出して弟の幸男、安幸らをつれて山で蝉やかぶと虫などを捕り、川で鮒などの小魚を笊で掬ったり釣ったり、近くの寺のお墓でメンコやケン玉遊びなどに夢中になっていた。父から兎の餌を取ってこいなどといわれると喜び勇んで近くの畑や土手や畦などを駆け巡った。
ある時、弟2人と兎の餌をとりにいったとき、途中の畑の人参の葉が青々としていた。兎が人参を好んで食べることを知っていたのと、その辺にだれもいないのを確かめてこれを盗んだ。弟たちも俺にならって盗み始めた。ところがこの時「この野郎たち、なにをするんだ。返していけ」と大きな怒鳴り声が聞こえた。この時ほど慌てたことはない。3人で必死に逃げた。途中の畑に「どつぼ」(人糞を溜めておく所)があり、そこを飛び越えながら逃げたのであった。これは初めての事でほんの出来心であったが、以来こうした悪いことは絶対にしまいと誓った。
小学校での鮮烈な思い出のなかでは、S15年11月10日の紀元2千600年式典、全国各地で式典が繰り広げられ、私たちも旗行列に参加、一人一人に紅白の落雁が支給されたこと。
<いとうせいこう注>
人参を盗んだ話を、私も数度聞いたことがある。
どうやらこれは父の得意の笑い話であるようだ。
だが、父は必ず誰か私以外の人間にそれを話すのだった。
これ以降、いずれ訪れる見合いの席でも父はこの話をするはずだが、それも見合い相手の母にではない。
父を母に引き合わせた母の兄・邦雄さんに対してなのだ。
混迷の中学生時代
S18年に岡谷市が市政7周年の最大の記念事業として設立した岡谷中学校に入学したのであるが、諏訪地方には諏訪中学校と言う名門中学があり、クラスで成績のいい者だけがここを受験できた。私は「抜群の体育以外の成績は“良上”。このため諏訪中学は駄目で岡谷中学へいけ」と言われた。小学校はS16年から「国民学校」に改称され、成績評価は優、良上、良、可、不可の5段階でその順位によって中学受験が振り分けられた。入学試験はすでに筆記試験が廃止され、国民学校からの内申書と口答試験、身体検査だけであった。
私の成績評価が“良上”ばかりだったのには、どうやら私の学習態度が関係していたようであった。6年生の時に、隣の椅子に座った女の子の頭を殴ったりしたのがどうやら先生の印象を悪くしたらしかった。
私は諏訪中学校にはいけなかったが、上諏訪から岡谷までの汽車通学がむしろ嬉しかった。
制服はカーキ色の国民服に戦闘帽、挨拶はすべて軍隊式の敬礼を強制され、登下校の時はもとより街中でも上級生へは敬礼した。しないと後で呼び出されてこっぴどく殴られた。だから早く2年生になりたかった。2年生になって最初にやったのが、敬礼しない下級生を登校途中でみつけ、休み時間に呼び出して椅子を逆さにし、そこに座らせて殴りつけ制裁したことである。われわれから制裁を受けた下級生の一人が戦後初めての冬季オリンピックでスケートの日本代表になった。彼は我々に殴られたこと対しては一言の愚痴もいったことは無い。
中学の先生の中には恐怖を感ずるような先生がいた。いちばん怖かったのは国語の先生の「クボケン」(窪田健一)だった。有名な島木赤彦の息子であった。授業の時、教科書を読まされるのであるが、一字でも読み違えるといきなり拳骨が飛んできた。怖いからまた間違える、するとまた拳骨である。国語の時間はまさに恐怖の時間であった。
1年生の時は学科の授業も普通に行われ、まだ「英語」の時間もあった。しかし「教練」という学科が設けられ、陸軍将校(中尉)が派遣されてきた。中尉といっても50才台の郎中尉であった。私たちは敬礼姿勢や行進などの初歩的なことや匍匐前進の訓練などを教えられた。
私は2年生になって「陸軍幼年学校」を受験した。試験は松本でおこなわれたが、陸軍大臣の名前も答えられず見事不合格であった。一緒に受験した同級生のなかからは1人が合格しただけであった。
前年には兄武男が「海軍兵学校」に合格した。同時に従兄弟の小松の「幸三」ちゃんは「陸軍士官学校」、武男と同年の小松の「清ちゃん」は「海軍兵学校」に合格した。幸ちゃんと清ちゃんは兄弟、母の兄さんの子供であった。ともに諏訪中学からの合格者で、従兄弟3人が同時に町のみんなに盛大に送られて入学していった。
俺もという意気込みで、私は陸軍幼年学校を目指したのであった。
さて、学科の授業が型どおりに行われたのは2年生になったS19年の2学期までであったが、突然われわれの間から英語追放運動がおきた。英語は敵性語だというわけである。われわれは英語教師の小宮山先生が教室に入れないようにピケをはった。ストライキである。このストの首謀者はクラスで一番の小口雄康であり、このために皆が結束した。これには学校側が驚いたようで校長が先頭になって説得を始めた。われわれのストは2日間で終結した。だれも処罰を受けなかった。それだけ戦況は不利になっている事が想像された。
この事件が起こってから暫くして我々は高砂というところにあった「中島飛行機製作所」に勤労動員された。仕事は雑務でありどんな事をやらされたかは覚えていない。
ある日、この工場の工場長が私たちを案内してつくった飛行機をみせてくれたが、木製の飛行機でせいぜい10人くらいか乗れる程度のものであった。「これが空をとべるんですか」と思わず聞いた。はっきりした答えは無かった。私のような者でもこんな飛行機で戦えるはずがないと実感したものであった。同級生同士で「これは敵の目を欺くために飛行場に並べておく模擬飛行機ではないか」と噂しあった。
19年から20年前半までの戦況はどうであったか。歴史をひもとけば19年にはマリアナ沖海戦で日本海軍は航空戦力の大半を失い、サイパン島で日本軍全滅、東条内閣が総辞職に追い込まれた。ついでレイテ島沖海戦で日本連合艦隊の主力を失う。そして神風特攻隊が組織された。米機動部隊が沖縄の空襲をはじめた。日本軍はすでに制空権を失っていて、20年3月の東京大空襲をはじめ主要都市が米軍の空襲に晒されていたのである。
そんな状態になっていることはつゆ知らず、われわれはこの時点でも日本の勝利を信じていた。20年の6月ころ上空にB29戦闘機が銀翼を輝かせてあらわれた。B29を見るのは初めてでありみんなで見上げていたのであるが突然何かがおちてきた。「伏せ」という大声が聞こえ、思わず身を伏せたのであるが、爆弾は落ちては来ず、チラシが舞い落ちてきた。拾い上げてみると日本がポツダム宣言を受諾し無条件降伏することになったことが日本字で書かれていた。それを見た私たちはなお「これはアメリカの謀略だ。だまされるな」と憤慨した。この時点でも諏訪はのんびりしたものであった。
- 思い出すままに 1-4
-
終戦と混乱
終戦時、私たちは中学3年生になっていた。8月14日、学校から「明日、登校するように」との連絡が伝えられ、9時までに登校すると全員講堂に集合させられた。校長先生から「12時にラジオで重大放送があるから聞くように」との話があり、ただちに下校を命じられた。私は同級生の松沢と歩いて上諏訪へ向かった。雲ひとつ無い猛暑で、歩けば砂煙が立った。
12時の天皇陛下の玉音を聞いたのは上諏訪の石屋の前であった。雑音が多くてその内容はほとんど聞きとれなかったが、石屋の主人から「日本が戦争に負けたんだ」と聞かされた。大変なショックだった。2人はそれから黙ったままそれぞれの家に向かった。
家にはだれも居なかった。私は奥の間で呆然と仰向けになって天井をみつめていた。一体これから日本はどうなるのだろうか。戦地にいる兄たち(源蔵は南方、治幸は東京の軍需工場、計男は新潟の連隊、武男は呉の海軍兵学校)は無事だろうか。父親の牛乳屋はどうなるだろうか。そして俺はどうすればいいのか。意識は混濁し、すべてを投げ出したくなるような、無気力になっていく自分を感じていた。
障子を開けて兄嫁が顔をみせたが、そのまま黙って台所の方へ消えた。
夕方になって父母がどこからか帰ってきたが、これまた押し黙ったままであった。
8月30日、マッカーサーが厚木飛行場に降り立ち、9月2日、米艦ミズーリ号上で降伏文書の調印が行われた。
2学期から学校が始まり、われわれはとりあえず学校に戻った。S21年は中学4年生となった。部活がはじまり野球部、スケート部などが活発に練習を開始した。私は最初はバスケット部に入り、ついでボート部に入った。
文化活動の分野では弁論部ができたのでこれに参加した。学内対抗弁論部大会があり、優勝して中部地方大会に学校代表で参加し、4位となった。どんな事を題材にして弁論したか定かには覚えていないが、どんな事でもいいから皆で力を合わせて一生懸命やれば成らぬ事も成るといったことを、蟻の働きを例にしながら論じたように思う。
学校のすぐ前が諏訪湖なのでボート部に入ったのだが、ボートは分厚い板で出来ていて10人乗りくらいのもの。船体は大変重く、オールの重みも尋常でなかった。思うようにボートを漕ぐことが出来なかったのですぐ退部したがそのうちにボート部も解散した。
S22年には新憲法が施行され、6・3・3・4制の新学制が4月から施行された。国民学校が小学校に改称され、新たに3年制の新制中学校がもうけられた。しかし新制高校の発足は翌年度からであった。S23年の3月、旧制中学5年の卒業期を迎えたが、新制高校の発足に伴って3年に編入する制度が設けられ、旧制5年で卒業するものと、あと1年、新制高校に進むものと2手に別れ、複雑な卒業式となった。私は新制高校(岡谷南)に進む方を選択した。
岡谷南校での思い出の中では、野球部が強く、県優勝の一歩手前までいったこと。この野球部の応援で松本まででかけて声を振り絞ったこと。スケート部がオリンピック選手を2人も出したこと。男子バレーで全国優勝したことなどである。
スケートのことでは諏訪湖が毎年全面結氷し、いいスケートリンクがつくられていた。下駄スケート時代で、よくその刃をヤスリで磨いて滑りに出掛けたものであった。戦後になって靴スケートで滑る少年が現れはじめ、両手を腰に悠々滑る姿が羨ましかった。私たちはついに靴スケートとは無縁で下駄スケートを押し通した。
<いとうせいこう注
玉音放送を聞いた状況について、父は何度か私に話したことがある。それが「石屋の前」であったことも、もしかしたら父は話していたのかもしれないが、息子の私はディテールに無関心であった。
だが今、文章として改めてその体験を読むと、記憶のリアリティがひしひしと迫ってくるのを感じる。その暑さとその静けさと、その思考の停止、つまり動けなさが。
また、兄嫁が一度入ってきて出て行くくだりなど、息子の私が言うのもなんだが実にうまい。このエピソードは今まで聞いた体験談からは確実に省かれており、今回書くことを強制しなければ決して出てこなかっただろう。
父にこのような筆力があることを、私は初めて知ったのである>
- 思い出すままに 1-5
-
就職ー1
S24年に岡谷南を卒業。治幸兄の世話で松本の信陽新聞社の編集局に入った。当時治幸兄が信陽新聞の諏訪支局の記者をやっていたこと、信陽新聞の社長が諏訪の有名な宮坂酒造会社の息子だったことによる。大学への道は諦め、とにかく早く働きに出て少しでも親の助けになりたいと私は考えていた。もともと文章を書くことは嫌いではなく、新聞記者に憧れていたからでもある。
牛乳の販売は戦時に引き続きなお統制されており、苦しい家計のなかにあった。一番早く家に帰ってきたのは計男兄で、朝早くから列車で伊那方面へ買い出しに出掛け、夕方薩摩芋などをリュックサックに一杯詰め込んで帰ってきた。そのうちに兄武男が海軍兵学校から帰ってきた。そして「われわれはいつ米軍に掴まるかもしれない」といっていた。
私と弟の幸男・安幸は新聞販売店で夕刊の配達のアルバイトをやっていた。大黒柱の源蔵兄は20年の初めに戦死の公報が入り、高島小学校で合同慰霊祭がすでに行われていた。後に南方の戦地で九死に一生を得て帰ってきたが──。はやく働きに出て親の助けになりたいとおもったのには、この様な家の事情があった。振り返ればこうしたなかで父はよく我々の学費を出してくれていたと思う。
さて当時、長野県での本格的地方新聞は本社を置く「信濃毎日新聞」(信毎)だけであったが、松本でセントラルという映画館を経営していた宮坂社長がこれに対抗して松本を中心とする本格的地方新聞を設立したのであった。最初は夕刊だけの発行であった。資本に物をいわせた強引な新聞社づくりではあったが、戦後直後のことであり、そう順調に運ぶわけはなかった。しかし文化的土壌をもつ信州の真ん中の松本(国宝の松本城があり、旧制松本高校の所在地でもある)だけに地方の情報紙への待望感があり、購読者は順次増加していった。自信を持った宮坂社長は長野市や諏訪市など地方支局の設立も進めた。映画館の利益を新聞にかなり注ぎ込んだようだが、苦しい経営が続いていた。
本社社屋はセントラルの一角におき、編集局は一階、印刷と文選工場はセントラルの地下にあった。中央の記事は共同新聞社と契約していたが、とにかく新聞を発展させるには膨大な人員が必要であった。一線記者、整理記者、校正記者、地方支局記者、文選工、印刷工、販売所、拡張員、広告取りなどなど。良い新聞を作ろうとすれば途方もない資金が必要である。
私は就職と同時に編集局の隅の2畳の部屋で寝泊まりすることとなった。仕事は朝一番の列車で送られてくる共同新聞社の記事を取りにいくこと、その後は整理記者が整理した原稿を地下の文選工室に運ぶこと、編集室内の掃除など。1年後からは校正を受け持った。編集長の「新聞記者になるには給仕からやるものだ」を信じて働いていたから、与えられた仕事を苦労と感じたことはまったくなかった。2年後に待望の記者を命ぜられ、警察と市役所を受けもった。ここから本格的記者生活が始まったのである。
<いとうせいこう注
この「就職」の項目は長いので、私の編集者的な判断で三つに分割して掲載する。父はこの間の事情を事細かに覚えていて(正確に言えば「思い出して」)、まことに丁寧に書き込んでいる。項目ごとの長さは、父の自分自身の過去への思い入れに比例すると思われ、その意味で本項は父の記憶にとってきわめて重要な位置を占めるだろう>
- 思い出すままに 1-6
-
就職ー2
待望の新聞記者生活は誠に楽しいものであった。自転車での取材活動があり、午前中には編集室に帰って記事を書き、午後5時頃に印刷されるまでセントラルで映画を観ていた。上映されるのは西部劇などの洋画が中心であった。
新聞の印刷が刷り上がると、それを一読してあとは毎日のように酒盛りをした。私は編集長の命令で、大きな鉄瓶を自転車にのせて横手町の密造どぶろくを買ってきた。ここで私は酒の洗礼を受けたのであるが、父の遺伝子を受け継いだらしく幾ら飲んでも悪酔いはしなかった。たまに頭がぐらぐらするほど飲んで吐くことはあったが、一升以上飲まない限り悪酔いはしなかった。
月給は出たことは出たが、支給日がずれることがしばしばあり、半月も出ないことがあった。労働組合が結成され、若手の私は青年部長に選出された。新聞労連に加盟して、その全国大会に出たこともあった。そんな中である日、給料の遅配・欠配を許すなと叫び、編集局の同僚今井君と夜に社長室を占拠し、断食闘争に入った。しかし、社長と編集長の話し合いが行われ、善処するというのでこの闘争は一日で終わった。S25年の赤狩り(共産党員の追放)の余波をうけて、我々が尊敬していた永井組合長が追放された。サンケイ新聞で宮内庁詰め記者をやった経験があり、どうもそのころ共産党員とみなされたらしい。しかしこの疑いはすぐにとけてまもなく編集局に帰ってきた。
さて、私は初任給が幾らだったか思い出せないが、毎日のように昼飯に寄った飯屋の中華ソバが確か35円であった。それから推量すると3,000円位ではなかったか。私は給料の半分を父に送った。宿泊所が編集局の片隅で宿直を兼ねたから、日常生活の費用はほとんど必要なかったからでもある。
信陽新聞の四苦八苦の状況のなかで、S26年、読売新聞が支援に乗り出してきた。読売本社から営業責任者として大江原氏が、編集顧問として梅津氏が派遣されてきた。ともに本社の重役で相当の腕利きとの触れ込みであった。読売新聞本社がなぜ信陽新聞の再建に乗り出してきたのか。それは朝日新聞との対抗のためであった。
- 思い出すままに 1-7
-
就職ー3
長野県では戦前から「信毎」が朝日系地方紙として圧倒的なシェアーを確保していた。読売の狙いはこの朝日の勢力と長野県で対等の地位を確保したいというもので、そのために新興勢力の信陽新聞と提携する戦略にでたのである。
ただ私にとってはそんな事はどうでもよかった。良い記事を書く、この事しか念頭になかった。
池田君という若い後輩の入社、校正係から一線記者を拝命されてから編集局隅の宿直生活から開放されて、印刷局の田中君の薦めで松本から大糸線で2つ先の島内駅の近くの貸家に田中君、営業の宮本君と3人での下宿生活にはいった。この下宿のご夫婦は温厚で親切であった。家のすぐ前には梓川がゆったりと流れていた。夕方になると、この家の小学生が釣りをしていた。
編集局で仲の良かったのは整理記者の市川正二君だった。彼は大町の高校を卒業して入ってきた私の同期であった。頭のきれる優秀な男で整理(記事の過ちを正し、見出しをつけ、その記事を紙面のどの辺に入れるかを考えて割り付けする)の仕方をすぐ覚え、武井整理部長から信頼されていた。酒もよく飲んだ。
S27年、彼は辞めて東京に出ていった。聞けば右派社会党の中央機関紙「日本社会新聞」に就職したとのことであった。どうやら毎日新聞を辞めて信陽新聞の編集長になっていた西沢さんの紹介と勧めによるものらしかった。この時点で私にはまだ辞める気持ちなどはなかった。
ところが、その年の暮れ、市川君から電話があり、こちらの編集長が記者が欲しいといっているからこちらに出て来ないか、との誘いがあった。
この話があってから、私の心に俄に勉学心が沸いてきた。田舎の蛙から脱却しようとの志である。松本ではよく社会党の演説会が開催されていた。松本出身の弁護士で代議士の棚橋小虎がいたからである。浅沼稲次郎、三宅正一など社会党の闘士らが弁士としてやってきた。私はなぜかそれを聞くのが好きで聞きに出掛けた。そして時には棚橋先生の弁護士事務所での記者会見へも顔を出した。秘書の岩垂寿喜夫君(後に総評の政治部長─社会党代議士・自社連立内閣で環境庁長官となる)とも親しくなった。このことも私の東京行きを決断させた背景であった。
<いとうせいこう注
父は自分がかつて新聞記者であったことを、確かに何度か私に話した。今から思えば、である。
だが、私には「信陽」とか「信毎」といった地方新聞自体がイメージしにくかったし、父がそこで記者として何をしていたのかをほとんど理解出来なかった。
私はいつも、記憶から父の新聞記者時代を消してきた。それどころか、父からまさにその話を聞いている最中にさえ、私は理解しがたいイメージを次々に消去した。つまり、聞いていなかった。
私は父の、おそらく最も青春に近い時代の思い出話をこれまでずっと無視してきたのである。
また、ここでの父の“演説への興味”に私は驚愕せざるを得ない。
ここ数年、私は日本語でのラップを単に80年代中盤以降のアメリカからの輸入文化として見ず、明治時代以降のあらゆる演説の歴史の延長としてとらえる考えを得、それを率先して実行していたつもりだったのである。
だが、それを父の嗜好の遺伝とみてしまえば、私の考えは目新しくも何もない。
果たして「カルマ」とはなんであろうか、と問わざるを得ない。
我々はみな、なぜか親の嗜好、あるいはまたその親の嗜好から自由になれない。
知らずにいても、嗜好は世代を越えてやってくる。
嗜好を否定して冷徹に考えているつもりでも、小さな隙に嗜好は来る。
我々を不自由にする、この強い力はなんだ?
なんなのだ?>
- 思い出すままに 1-8
-
上京・日本社会新聞時代
S28年4月、単身で上京した。新宿駅に市川君が出迎えていてくれた。早速、三宅坂の社会党本部の4階にあった編集局に連れていかれ、山崎編集長と先輩の平田修三さんを紹介してもらった。
下宿は市川、平田両君が借りていた田無の下宿での共同生活であった。ここから毎日、中央線で新宿に出て都電に乗り、三宅坂に通った。
日本社会新聞は右派社会党の中央機関紙であり、党の補助なしの独立採算の新聞であった。社長は右社書記長の浅沼稲次郎で専務は参議院議員の曽根益であった。私は労働組合関係を受け持ち、平田氏は議会活動と党の関係を主として受け持った。
終戦直後に戦前の無産政党の各派は一つとなって日本社会党を結成した。中心的役割を担ったのは片山哲、西尾末広、水谷長三郎、平野力三らであり、戦後第2回目の総選挙で第一党となって片山内閣を組織した。官房長官は西尾末広であった。
しかし社会党内閣は出発当初から左右の思想対立を抱えたままであり、左派マルクス主義者の鈴木茂三郎が予算委員長となったが内閣提出の予算案を自民党と一緒になって否決したため、社会党内閣はわずか7カ月で潰れていく。そしてS24年の第3回総選挙で143の議席が僅か48議席となり、片山委員長までも落選した。
党の再建を巡って左右が激しく対立、右派の森戸辰男が党はマルクス主義と対決する政党であるべきことを主張し、左派稲村順三がマルクス主義は人類解放の理論であり、真の社会主義を建設し得るものは労働者階級であること、社会党はあくまでも労働者階級の政党であることを主張した。この森戸・稲村論争はいわゆる「国民政党か階級政党か」の論争で、これが26年の全面講和か単独講和かの論争と絡んで、ついに左右社会党に分裂していく。
労働組合運動では、戦後の産別会議(共産党)主導の階級闘争至上主義運動に反対して民主化運動が起こり、これがS25年の総評結成へと進んで行く。ところがこの総評がマルクス主義者の高野事務局長を中心とする左派勢力によって1年も経たずして左旋回、と同時に破壊的な階級闘争至上主義への傾斜を強めていく。
その闘争の象徴となったのがS27年の秋期闘争の、電産の電源ストをふくむ約3カ月、炭労の約2カ月に及ぶ長期ストであった。結局この無謀・無法の闘争は世論の批判にさらされ、全面的敗北となった。これに対して全繊、海員、日放労、全映演の4単産が批判の共同声明を出し、S29年、これに共鳴する労働組合とともに全労を結成していく。
私が上京したのはこうした変化の時であった。
<いとうせいこう注
こうして父は戦後政治の世界に入っていく>
- 思い出すままに 2-1
-
第二章
新しい出発
S28年(23歳)の上京の時期は、左右社会党も労働運動も激しい対立抗争の最中にあった。それはその後の日本の政治と労働運動の進路を決定づける思想対立であった。階級闘争によって共産主義的革命政権(独裁政権)を樹立するか、自由と民主主義を発展させる立場から民主的手段によって政権を獲得して政治を行うのか(選挙による政治家の選出、議会主義)の闘いであった。私は後者を選択したのである。またそれは新聞記者から政党活動家への選択であり、新しい出発であった。
日本社会新聞の記者となり、労働組合運動の担当となった私は、毎日のように当時芝市兵衛町にあった海員組合の本部と三田の総同盟本部に通った。自転車もなく、三宅坂からすべて徒歩であった。私は海員組合では和田春生、木畑公一氏ら、総同盟本部では古賀専、中島桂太郎氏らにあって、取材活動を続けた。上京当初の私に確たる信念はまだなかったが、これらの指導者の話を聞く度にだんだんその運動の目指すものが理解できるようになっていった。
私は右派社会党の書記ではなかったが、武蔵野支部の党員となった。支部長は中村高一代議士であり、書記長は市議の後藤喜八郎氏(きいちゃんと呼ばれ人気があった。のちに武蔵野市長)であった。私に目をかけてくれたのが伊藤重雄市議であり、伊藤さんには新しい下宿を探してもらったりした。選挙の時にはこの伊藤さんの事務所に張り付いて応援した。
さて労働運動の方はといえば、4単産声明後これに賛同する産別の間で「全国民主主義運動連絡協議会」(民労連)が設立され、4単産のほかに総同盟、常磐炭労、全食品、日本鉱山、全国港湾同盟、全化同盟、造船労連、国鉄民主化同盟、全造船石川島分会、全国土建総連などの産別が加わった。そしてS29年4月22日、全労会議の結成となった。組織人員80万名であった。
一方、左右社会党が急速に接近し、S30年の統一へと進む。森戸・稲村論争、講話問題、日米安保問題などで激しく対立し、その社会党を支える労働組合が大きく分裂したのにもかかわらず、両社会党がなぜ統一を急いだのか。一つは自民党の吉田内閣が崩壊し、鳩山内閣となり、にわかに鳩山人気がたかまったこと、総選挙を目前にひかえて左右分裂のままでは共に低落するのではないかとの危機感によるものであった。このため基本理念は置き去りにされ、統一綱領では党の性格を「階級的国民政党」とした。まさに水と油を混ぜ合わせたようなものであった。すなわち階級政党論は暴力革命をも容認して一党独裁政権を目指すものであり、自由と民主主義を否定する内容を包含する。国民政党論はこれを否定し、国民の自由意志による選挙によって多数を占めた政党が政治を担うという民主主義にもとづく。まさに相容れない思想なのである。
全労はこうした便宜主義的な統一に強く反対した。
私たちは両者統一後も日本社会新聞の発行を独自に続けた。私は総評批判を止めることはなかった。このため統一社会党書記長となった浅沼(稲次郎)さんから「おい、あまり総評批判ばかり書くな」と言われたことがあった。
<いとうせいこう注
ここまで読む限り、父にプロレタリア独裁を選択する余地はなかったようだ。
いわんや無政府主義をや。
また、今回から「第二章」と区分を付けた。
さかのぼって冒頭に「第一章」という一行を入れる>
- 思い出すままに 2-2
-
父2-2
右社外郭青年組織への参加(東京民社青同の事務局長に選出さる)
右派社会党は民主社会主義をその指導理念とした。社会党分裂がS26年の10月の臨時党大会であったが、丁度この年の7月ドイツのフランクフルトで開催された社会主義インター大会(長い大戦でばらばらとなっていた西欧各国の社会主義組織が初めて一同に会した)が新しい「民主主義に関する宣言」を発表した。通称これをフランクフルト宣言と呼ぶのであるが、この宣言でロシヤなどの共産主義運動を「新たな帝国主義」とよび、「自由無き社会主義は社会主義でない」「民主主義を通じて社会主義を建設」とうたった。共産主義(マルクス・レーニン主義)への決別宣言であった。
この宣言は日本社会党内のマルクス主義でない人々に有力な理論的武器を提供することになった。それまで日本の中では民主社会主義という言葉はなかった。したがってそれまでの発言や文書はすべて「社会民主主義」という言葉が使われていたのである。朝日新聞などの左派系はいまだに民主社会主義という言葉を使ったことがない。このためわれわれの考えが明確に伝わらないことがしばしばあった。
さて、右派社会党は青年部を持たず、青年対策本部を持った。初代青年対策本部長は浅沼稲次郎。青年部を作らなかったのは日本社会党の「青年部」がしばしば党の決定方針に反対し、党内党的行動によって党を混乱させたこと。党外の青年への影響力とならないこと。などの理由によるものであった。
そこでS28年1月の全国大会で党の外郭組織として自主的青年組織の結成をはかり、そのことによって党に直接入ることを躊躇する青年達にも広く党の影響を及ぼすことを狙ったのである。それまで右派系青年団体として独立青年同盟の活動があり、これが左派攻撃で潰されたあとに重枝琢巳氏らが青年懇話会を作って活動した。これがひとつの基盤となって「民主社会主義青年同盟」(民社青同)が29年1月に結成される。私たちはただちにこの民社青同の東京組織に加盟して活動した。
結成直後の民社青同に降りかかってきた難題は両社統一問題であった。私達は民主社会主義という新しい理論のもとで右派社会党を支えていこうとして意気ごんでいたのだが、党内に統一積極派と慎重派が生まれ、これに民社青同も強い影響を受けて激しい論争が展開された。
慎重派の代表は西尾末広で「左派はマルクシズムに立脚し、必ずしも暴力革命を否定していない。これに対して右社は暴力を否定し、選挙の結果多数をとれば政局を担当し、少数になれば下野するという考えである。この相違の解決をはかろうとしないで、ただ大衆が要望しているからといって無原則な歩み寄りや妥協をすれば、数は多くなっても政局を担当するや直ちに政策的に行き詰まって破綻する。それでは大衆の要望に反することになる」「割れた茶碗を継ぎたしたような安易な統一をやれば、下手をすれば再分裂という結果さえ引き起こすであろう」との考えを明らかにしていた。この考え方に同調する青年たちも多かった。
また、日本の安全保障問題に関連して「憲法9条が自衛権まで放棄しているとみるのはどうか」「このさいこの問題の理論統一が必要ではないか」の意見があり、民社青連は一時分裂の危機に直面した。この危機は統一積極派の麻生良方会長と慎重派の黒田忠氏ら総同盟系との話し合いによって「われわれの団体はそれ自身政党ではない。思想と志を同じくする民主社会主義的政党の発展に貢献し、同党を通じて目的を達成する」など結成時の5原則を確認し、両派社会党の統一如何にかかわらず組織を存続させ、主体性を強化するとの方針を確認して収拾した。
こうして、民社青同は両者統一後も活動を続けた。私は東京民社青同の事務局長に選出されたが、西尾派と見做されていてその代表として担がれたのであった。
しかし両社統一後の統一社会党青年部が、党の外郭に2つの青年組織(社青同と民社青同)があるのはまずいとの考えから両組織の統一を絶えず働きかけたこともあって、民社青同の活動には次第にブレーキがかかっていった。
民社党の結成に参加
統一社会党は西尾末広の予言どおりかえって内部対立が深くなり、参院地方選の相次ぐ敗北によって、再び大衆政党か階級政党かの議論を蒸し返すこととなり、左派の「西尾除名」問題を契機として社会党は再び分裂してS35年の民社党結党へと推移する。
私は当然、民社党に参加した。そして民主社会主義青年運動の再構築を目指して民社青同を解散して「民社青連」を発足させ、初代事務局長に選出された。
日本社会新聞も解散され、あらたに民社党中央機関紙「週刊民社」が発行され、私は引き続きその記者(身分は正式な民社党書記局員として採用された)となった。
党活動の面では三鷹総支部の書記長に選出された。
<いとうせいこう注
こうして読んでみると、端的に言って父は活動家なのだった。
考えてみれば当然なのだが、ここまでそうだったのかと私は驚いている。
個人的な事柄がほとんど書かれていないのは、社会と思想それ自体が激動していたからだろう>
- 思い出すままに 2-3
-
私の結婚
私が結婚を真剣に考えるようになったのは、母の死からである。母はS34年の1月に亡くなった。前年の12月に脳溢血で倒れたのであるが、ちょうど年始年末の帰郷中であった。すこし快方に向かいつつあるという医者の言葉を信じて1月5日に帰京した。
帰京の直前、母の枕元で「頑張ってね」と激励した。その時母がうなづきつつ「郁もそろそろ年だし、嫁をもらわねば」と呟くように言った。私も母を安心させるつもりで「うん。考えているから。そんな事を心配するな」と答えたのであった。
しばらくは大丈夫だろうと考えていたのだが、7日の朝「ハハ、シス」の電報である。頭に釘を打ち付けられたような衝撃であった。ただちに飛んで帰り、母の骨を拾った。「郁、そろそろ嫁をもらわねば」が私への母の遺言となったのである。
この年のある日、民主社会主義連盟(民社連)の編集長をやっていた高木邦雄氏から「俺の妹と見合いしてみないか」との話があった。民社連はS26年12月に結成された民主社会主義を普及・啓蒙する思想団体で、右派社会党を支える理論集団であった。高木氏は中央大学を卒業後、青森の中学校の先生をしていたが、民主社会主義に共鳴して上京し、民社連発行の雑誌の編集長となった。聞けば岡谷市今井の出身とのことで急速に親しく交際することとなった。
母の遺言のことがいつも頭にあったので、私はためらわず「いつでもいいよ」と答えた。すると1カ月もしないうちに「妹も承諾したから俺の岡谷の実家で会ってみてくれ」との事であった。その見合いの日取りも決めてくれた。
邦雄氏の弟の弘康氏がすべてを段取りして待っていた。弘康氏はお父さんの政司氏が開設した今井郵便局の局長を引き継いでいた。大変な酒豪で、挨拶もそこそこにすぐ酒盛りとなった。見合い相手の幸子はその途中で挨拶に来たが、私は弘康氏とすっかり意気投合して2人で1升瓶を軽く空にした。
弘康氏は人を決してそらさず冗句を連発して笑わせた。誠に爽やかな印象だった。幸子は料理を運んで来ながら私を観察していたらしいが、結局私とは一言もかわさず、私もそんなことなど気にもならず、この見合いは終わった。ただ、弘康さんの妹ならうまくやって行けるだろうと思ったのである。
<いとうせいこう注
ついに母が現れた。
だが、父はまだ“一言もかわ”していない。
むしろ父は、まず母の兄である邦雄さん、弘康さんになついたようだ(そして、父にとってそうであったろうように、両叔父は私の人格形成にも大きな影響を及ぼしていく)。なにしろ、母にでなく、弘康さんに対して「誠に爽やかな印象だった」と言っているくらいだ。果たしてそれが見合いだろうか。
さて、次回からは母の証言も同時に、この場に載せていく。
母は私同様、父のこの自叙伝を読み、自分としてのコメントをしていくのである。
この自叙伝はつまり、家族による、複数の視点からのレポートと化していく。
いわば「我々の家族小説」といったものになるわけだ。
ちなみに、母は自分の原稿に『私のつぶやき』という題名を付けている>
- 思い出すままに 2-4
-
私の結婚2
帰京して邦雄氏に報告し、異存のないことを伝えた。それから暫くして邦雄氏から「幸子もいいと言っている」との返事があった。私は早速、結婚の日取りの検討に取り掛かる。民社党の結党(S35年1月24日)があって忙しかったので、すこし落ち着いてからと思い、5月中にと決めた。
早速日本青年館に出向いたが、大安の日などはまったくふさがっていた。当時は結婚式・披露宴の会場は足場がよく、料金も安いこの日本青年館に人気があった。私もそこで結婚式をやろうと決めていたのだが、吉日はなかなか取れない。そんな時、係が「仏滅の日なら空いていますよ」という。冗談のつもりでいったのだろうが、私はこれにすぐに反応した。「俺は革新運動をやっている現代青年だ。大安とか仏滅などという旧来の慣習にこだわる必要もなかろう。仏滅の結婚式も話題性があっていいかもしれない」というわけで、5月31日(日曜日、仏滅)に決めたのであった。
日と会場がきまれば最大の難問は誰に仲人になってもらうかであった。私は日本社会新聞の編集長山崎宏さんなら引き受けてくれるだろうと思い、相談した。すると山崎編集長は「西尾(末広)委員長がいいではないか。よかったら俺から頼んでやろう」とのこと。私にとって西尾委員長は私が尊敬する第一の人であり、私はこの人の思想と行動に共鳴して民社党を選択したのである。それまでにこの人の演説や文章に触発されてきたが、言葉を交わしたことはない。私のような一介の書記局員の仲人など引き受けてはくれまいと思ったが、「頼んでくれるだけで光栄です」と返事した。1週間もたたないうちに山崎編集長から「西尾先生がいいよと言っている」という連絡があった。私は感激した。
山崎編集長は大島出身・東大をでて、戦後に出来た社会党内閣官房秘書官となった人。西尾官房長官時代の発言や文章は山崎さんの草案によるものが多かった。こうした強い繋がりによって西尾先生が仲人を引き受けてくれたのであった。
3月のはじめに結婚式の案内状を島書記局長をはじめ今まで交友のあった仲間に送った。ところが、すっかり準備が整った段階で邦雄氏から「どうも幸子がこの結婚を断ってくれと言ってきている。結婚式など勝手に決めてくれても出席しないと言っているようだ」とのこと。
これには愕然とした。案内状は送付ずみ、その案内状には「西尾末広御夫妻の媒酌によって」と記されている。なんとしても幸子を説得してもらう以外ない。邦雄氏に「こうなったら、とにかく出席してもらうだけでいいから」と懇願した。
その後邦雄氏がどのように説得したかは知る由も無かったが「出席だけはさせるようにしたから」と返事があり、なんとか結婚式を済ますことができた。伊藤家からは父が、高木家からは両親が出席された。
披露宴では渡辺朗さん(当時、党の国際局事務局長。後に代議士・浜松市長を歴任)が司会をひきうけてくれ、出席者も100人を超え、賑やかであった。披露宴が済むと党総務局阿部君運転の党の乗用車で東京駅まで送ってもらった。2日間の新婚旅行が組んであり、初日は箱根の小湧園、2日目は伊豆長岡の菊池旅館であった。この新婚旅行の費用は党書記局の仲間がカンパでまかなった。幸子は東京駅で列車に乗ってから覚悟を定めたようであった。
こうして私たちの新婚生活がはじまった。
最初の新居は三鷹市であった。
<いとうせいこう注
淡々と書いてあるので見過ごしがちだが、父はデタラメである。
母の都合も聞かずに式場を決め、日取りを仏滅にして「現代青年」を気取っている。
これは父のせいではないが、そもそも母の結婚への意思はあやまって伝えられたらしい。
母は話が勝手に決まっていると聞いて驚愕した。
だからあわてて「この結婚を断ってくれ」と彼女の兄に伝えた。
すると「(式に)出席してもらうだけでいいから」と父は懇願した。
そして出席した母を、父は新婚旅行に連れていってしまった。
これは略奪婚、と言ってもいいのではないか。
母はどう証言するだろう。
彼女が書いてくれた文章を以下に付す>
<『私のつぶやき』1(伊藤幸子)
「私の結婚のことについて」
私の家は田舎の旧家でした。父は平凡なサラリーマン(特定郵便局長)をしておりました。
だから私はごく普通の家庭に育ったとおもいます。独身時代には5、6種のお稽古事をしながらのんびりすごしていました。
したがって、縁談のお相手が政治活動をしている人だと聞いただけで、そんな人と添い遂げることなど自信がもてませんでした。私はあまり派手好みではありませんでしたし、都会の生活も不安でした。だから、すぐお断りしたのでした。
ところが、兄たちに「縁というものは理屈でははかりきれないものだよ」などなど何度も説得されました。
考えあぐんだ末、結婚を決意した次第です>
<いとうせいこう注
やはり、これはほとんど略奪婚だ。
そして、母が略奪される瞬間の写真が、先日実家で見つかったのである。
箱根に向かう列車はまだ走り出していない>
- 思い出すままに 2-5
-
都議会選挙に立候補・幸子は6カ月の身重-1
35年1月24日の民社党の結党は大変な反響を呼び、新党ブームが起こった。社会党が内部抗争もさることながら院内闘争での審議拒否、暴力による抵抗戦術など、議会制民主主義に反する行動に終始したからであった。
「議会は論戦の場であり、審議拒否などの戦術はとらない。審議を通じて考え方を広く国民に伝え、次の選挙で国民審判を受ける。それが多数を獲得する道である」とする民社党の主張に期待感が膨れ上がったのである。当時のマスコミの大半は「これで日本も健全なる2大政党時代が来る」と評価したものであった。入党者もうなぎのぼりに増え、一時は8万名に達した。池田内閣が解散で国民の信を問うことが予想され、党の衆議院選挙体制は急ピッチですすみ、130の選挙区のほとんどで候補者が揃ったのである。
ところが日比谷公会堂で開催の自・社・民社3党立会演説会で、社会党浅沼委員長が右翼愛国党の暴漢に壇上で刺殺された事件を契機として社会党への同情が集まり、11月20日に行われた総選挙の結果は自民296、社会145となり、民社は17名に止まった。選挙前40議席だったから惨敗であった。この選挙で私たちが住んでいた東京7区でも北条秀一先生が落選した。
このあとで私に突然難題が降りかかってきた。三鷹市で東京都議会議員をしていた社会党の田山東虎氏が、この総選挙の直前に都議を辞任して郷里茨城の衆議院候補者となった。三鷹市の都議の定員は1人のため、総選挙後に都議の補欠選挙が行われることとなり、私がその選挙の候補者としてにわかに浮上してきたのである。
北条先生は剛気の人であり、「民社党が大惨敗を喫したこの時こそ、民社党のど根性を見せるときだ。民社党は死なない。そのためにはこの都議補欠選挙に候補者を立てて戦うことだ」と主張した。落選の悲哀を味わったばかりのこの北条先生の気合いに反対できる者はいず、「そうだ、そうだ」と同意するものばかりであったが、ではだれを候補者にするかが大問題となった。
三鷹総支部長をはじめ数人の名前が上がったが、引き受けようという者は出てこない。私は総支部書記長ではあったが、三鷹の住民になったばかりで友人、知人はおろか知名度もゼロに近い。出ても勝てる要素は何もない。しかし、党本部書記局員であり、北条先生の考え方にも大賛成。頼まれたらむげに断れない立場であった。
切羽詰まった段階でついに私に白羽の矢が立てられた。私は結党─結婚─総選挙と続いて疲れ果てていたし、何よりもこの時点で妻幸子が4カ月の身重であった。断りたいというのが本音であった。それにはどうすればいいか。体調を理由にする以外にないと考えて野村病院で診察を受けた。慈恵医大の先生の回診日で、この先生の診断は「肝臓が腫れている。選挙などやったら命は保証出来ない。すぐ入院だ」という。私はその通りに直ちに入院の手続きをとり、総支部の吉田君(党本部機関誌局の後輩)に連絡し、幸子への連絡を依頼した。
吉田君からの伝言をうけた幸子は仰天したらしい。幸子は事のいきさつは何も知らない、いきなり夫がなんの病気で入院したのか、大変なことになったと思ったらしい。入院に必要な最低のものを用意して駆け付けてきたのであった。
これで私の立候補は無くなったと思って、医者の指示に忠実に従った。毎朝太い注射管で葡萄糖注射を打たれた。
<『私のつぶやき』2 伊藤幸子
「夫の都議会議員選挙の時のことについて 1」
私は全く無視された出来事でした。
報告があった時、ただただ驚くばかりで、何も言えませんでした。
結婚したからには夫に協力するのが妻の役目としか考えられず、覚悟したつもりでおりましたが、腑に落ちないことばかりでした。
夫は総選挙活動の疲れから入院せざるを得なくなったのですが、入院している病室に立派な方がお見えになったので、夫は立候補をお断りすることになったことをお伝えしました。するとその方がいきなり「面子を潰された」と百万円の札束を机の上に叩きつけられました。私はその時、五ヶ月の身重でしたので驚きのあまり立てなくなったように覚えております>
<いとうせいこう注
この時、「腑に落ちないことばかり」の母の腹の中にいたのが私なのであった>
- 思い出すままに 2-6
-
都議会選挙に立候補・幸子は6カ月の身重-2
ところがである。都議選告示の日の朝、まだベッドの中の私の耳に選挙カーのマイクの声が聞こえてきた。どうやら「伊藤云々」と聞こえる。そして、その声がだんだん近くなってくるうちにはっきり「こちらは民社党から立候補しました伊藤郁男です」と聞こえてきたのであった。これにはびっくりした。ベッドからとび跳ねて起き上がると、宣伝カーが病院の前に止まり、吉田君が病室に飛び込んできた。
「伊藤さん、申し訳ないがお聞きの通りとなった。病院でこのまま寝ていてくれて結構です。同志みんなで代わりを勤めますから」との事で、私もこれにはただ呆れるばかり、しかし成り行きに身を任せることとなった。
党本部の仲間が連日、入れ替わり立ち替わり宣伝カーに乗って、私の名前を連呼して回っているようだった。ところが同志達が次々と病室にやってきて、「毎日伊藤なる人物が変わっていたのでは、本物はどれか、ということになる。有権者に対する冒涜だ」、「私が伊藤ですとやっているが、どうしても力が入らない」などと言う。
中には見舞いの酒だと一升瓶を持ってきて、これを飲めという者もいた。肝臓病に一番悪いことは分かっているはずだが、「これを飲んでくたばったら奥さんを身代わりに立てる。そうしたら当選だ」と言う。こういう乱暴な奴までやってきたのである。
約束と大分ちがうじゃないかと思いつつ、私も覚悟して5日目から街頭に出た。朝8時から12時、午後1時から5時まで街頭に出、最後には私から社会党候補に申し込んで都議選では初めての立会い演説会を実現させた。この立会いで私は「麦は踏まれて強くなる。民社党は今苦境にあるがやがて必ず大きくなる」と胸をはった。
いずれにしろ、入院しながら選挙をやったのは私が最初で最後であった。選挙の結果は惨敗だった。しごく当然の結果というべきであった。
S35年の政治混乱期とはいえ、いかにも馬鹿らしい無茶をやったものだと思う。自分が選択した民社の思想・理念への確信、何としてもこの党を消滅させてはならぬとの情熱が、こんなことに走らせた要因である。
<『私のつぶやき』3 伊藤幸子
「夫の都議会議員選挙の時のことについて 2」
とうとう立候補したのですが、ある時夫の街頭演説を聞いておりましたら、遠くの方から別の宣伝カーで「民社党の伊藤郁男をよろしくお願いします」と言って下さっている声が聞こえてきました。不思議に思いました。調べてみましたら、その声は前浅沼稲次郎社会党委員長の奥様のお声でした。
奥様は社会党の候補者の応援に来ておられたとのことでした。あとで問題になったと伺いました。
浅沼社会党委員長様とは、夫が右派社会党の機関誌に勤務している時に大変お世話になったと聞いておりましたし、私たちの結婚の時には記念品として大理石の置時計を頂戴しました。そんな関係で委員長様の奥様とはお逢いしておりましたから、夫を見て心配のあまり遂に口に出してしまわれたのではないかと思います。
数日後に夫の入院している病室に行きましたら、夫がおりません。30分位待っても帰ってきません。病院の係りの方に伺ってみましたが、全く分からないという返事でした。
私は先日の札束の件がありましたので、大変不吉な予感に襲われました。もしかしたらと悪い方に考え、胸の動悸は激しくなるし、息苦しくなってしまい、いろいろ考えました。最悪の時には実家に戻ろうと思い、心を落ち着かせようとしました。
それから1時間以上たっていたと思います。夫が晴々とした顔をして戻って来ました。聞くと、床屋さんに行って来たとのことでした。私は少々頭にきましたが、無事だからよかったと何も言いませんでした。
あの時夫にもしもの事があったとしたら、長男(正幸)、長女(美香)と巡りあうことはありませんでした。>
<いとうせいこう注
父・郁男の最初の選挙戦はデタラメであった。
それでよかった時代を、今は懐かしむのみである。
デタラメのうちには、母の証言にあるように、情によって敵に塩を送った浅沼稲次郎夫人の例も入っている。
さて、今回も写真をつける。
父の選挙事務所。
父本人が乗る選挙カー。
そして、父の立候補姿。
母が並んで立っている。
写っていないだけで、私はすでにいる>
- 思い出すままに 3-1
-
正幸誕生-1
民社党の結党・民社青連の結成・結婚・都議補欠選挙への立候補と慌ただしかった35年が明けて、久し振りに三鷹の新居での穏やかな正月を迎えた。
この新居は吉祥寺駅から井の頭線で二つ目の三鷹台駅から歩いて5分のところの2階家で、その2階の6畳間であった。幸子は料理が得意で毎晩おいしいものを作ってくれた。独身時代には味わうことのなかった物ばかりで、うまいうまいを連発して食っていた。もちろん酒は欠かさなかった。たちまち太っていくのが実感された。
この時点で幸子はすでに妊娠7カ月目を迎えていた。7カ月を迎えても幸子のつわり症状はまだ続いていて苦しそうだった。そのこともあり、幸子は2月に入ってから今井の実家にお産のために里帰りした。私としても安心であった。
ただ、大家さんの言うのには子供ができたら別の家に引っ越して欲しいとの事であった。慌てて家探しを始めた。幸子には帰ってくるまでには探しておくからと約束した。一軒家を不動産屋で探し始めたところ、三鷹市牟礼というところに新築の貸家があるという。早速出掛けてみると、6畳と4畳だけのこぢんまりした家が6軒建っていた。そのなかで道路に近い家を借りた。このことを連絡すると幸子から「引っ越しの時は姉の愛に手伝ってもらって」との事であった。愛さんはそのころ帝人に勤めていて、都内の中野に住んでいた。この愛さんのおかげで引っ越しはスムースに行われ、幸子と「正幸」を待つばかりとなった。
3月19日、朝から雪まじりの雨が降る寒い日であった。昼過ぎ「生まれた」と電報がきた。私は列車に飛び乗るようにして今井へ急いだ。母子共に元気そうであった。その姿をみて安心し、2日後、諏訪の実家に寄って報告し、再び帰京した。
子の名前は私が双方の父親の名前の一字を貰うこととして、幸子の父親の政司の「政」と私の父の友幸の「幸」から「政幸」としたが、もっと簡略な字にと思い、政を「正」としてみた。こうすると左右対象に近くなり、簡便でかつ座りがいい、と自分で勝手に納得した。
だが、これを「まさゆき」と呼称したのでは面白くないなあと感じたのである。それには理由があった。青年運動の仲間に「古田政行」(ふるたまさゆき)という、口下手で酒が入ると愚痴ばかりいう酒乱気味な男がいたのである。そこで正幸をまさゆきと呼ばず「せいこう」と呼ぶことにした。「まさゆき」より、このほうがなんとなく響きがよかった。
<いとうせいこう注
私は三鷹市牟礼にまったく思い出がない。
自分が西東京にいたことが、長らく下町に住み慣れていると不思議で仕方がない。
さて、私は自分の名「正幸」が、「まさゆき」でなく「せいこう」であることで子供の頃によく笑われた。今の私の通り名がひらがなであるのは、漢字で書いてあれば誰も正確に読んではくれず、訂正するのも面倒だとあきらめたからである。
一度、中学生だったか高校生くらいの時だったか、母に自分はなんでこんな名前になってしまったのかと問いつめると、母は洗濯物をタンスにしまいながら、「お父さんが選挙のときに呼びやすいようにって言ってた気がするけど」と答えた。私は選挙に出る未来を勝手に予定されていたことに、非常に奇妙な感じがして吹き出したように記憶している。父は私に何かを強制したことがなかったから、私は初めて父の沈黙のうちでの希望を理解した気がしたのだ。
その名付けが今回、実は「酒乱の友人」との区別をつけるためだと判明した。これは父が一度も話してくれたことのない事実である。
そして、「このほうがなんとなく響きがよかった」のだそうだ。
「なんとなく」……>
- 思い出すままに 3-2
-
<『私のつぶやき』4 伊藤幸子
「正幸誕生」
3月19日、外は雪景色、しんしんと降り続いていました。
昼頃、無事男の子が生まれ、まずはひと安心でした。それから正幸はすくすくと育っておりましたが、私が乳腺炎になってしまいました。大変苦しい思いをしました。母と兄が一生懸命看病してくれました。
兄は私を慰めようと、面白いことを言っては笑わせてくれましたが、笑う度に傷口が痛くて閉口しました。だがそれを兄に伝えることが出来ませんでした。
そんなある日、正幸に母乳を与えているときのことです。正幸が飲んでいるのをフトやめて、私の顔を見上げてニコニコと微笑みました。その時の顔は私が今まで見たことのなかった美しい顔でした。慈愛に満ちていたように思いました(親馬鹿かな)。
その時、母が覗きこんで見ていて、ひと言言いました。”こんなすばらしい笑顔は今まで生きていて一度も見たことがない”と。そして”幸子、この子はこんなに母親のことを信頼しきっていて、ありがとうと言っているように思える。だから今は苦しいけれど頑張らなければいけないよ”と静かに言われました。私は黙って頷き、頑張ろうと決心したのでした。
この時は母と兄には大変お世話になりっぱなしでしたので、いつかお礼をと思っておりましたが、ついその機会もなく、二人とも旅だってしまいました。私は大変不孝者だと悩んだ時期がありました。
「不思議に思うこと」
時が過ぎ、子供たち二人も成人になり、平凡な生活が続いておりました。
ある日、田舎で生活しております母が病に倒れました。私が見舞いに行った時のことです。
田舎の姉と二人で床についている母の前で雑談をしておりました時、しばらく黙って聞いておりました母がニコニコと微笑んで、私達を包み込むような優しい顔をしました。その時私は、正幸が生まれて2、3カ月経った時に私に見せたあの微笑みと同じようだ、と思って不思議な感じに襲われたのでした。
それから4、5カ月経って、姉に逢い、雑談していると、姉がひょいと母のあの微笑みのことを言い出しました。姉はおばあちゃんのあんなにいい顔は見たことが無いとのことでした。姉は不思議だねと言っておりました。私は姉には正幸が生まれて2、3カ月経った時に私の顔を見て母と同じような笑顔をしたことは話しておりませんでした。私は母と正幸の笑顔には何かを訴える共通点があるかもしれないと考えた事もありました。>
- 思い出すままに 3-3
-
正幸誕生-1
正幸が生まれてから1カ月くらいで帰ってくると思っていたが、幸子は4月を過ぎ5月に入ったというのに帰ってこない。電話して聞くと、弘康兄からの返事は「もうすこし待て」とのこと。私もそんなに急がなくても実家でのんびりさせて置くほうがよかろうくらいに考えて、帰るのをじっと待っていた。
結局幸子と正幸が帰ってきたのは6月の初めであった。どうしてこんなに帰るのが遅くなったのか、その理由が帰ってきてから聞いて初めて分かったのであるが、実は幸子の左の乳房が乳腺炎にかかり、40度近くの熱がでて寝たままであったという。手術をして炎症は食い止めたが、1日に1回づつ医者がきて傷口に管を差し込んで膿を抜き取ったのだそうだ。管を差し込まれる時の痛さは恐怖だったという。
幸い右の乳からは母乳がでたので正幸の授乳はできたということだった。乳腺炎が快方にむかって床を上げてみると、床の下の畳が汗のため腐りかけていたという。こんな大病のことをなぜ私に知らせなかったのか、それはもっぱら弘康兄の配慮と幸子の我慢の由であった。そんなことを知らないでのんびり暮らしていた自分が恥ずかしかった。
正幸は生まれてから2カ月くらい弘康兄が風呂に入れてくれていたのであった。また弘康兄は食事の時は組んだ足の上に正幸をのせてあやしながらであったという。食事を零したり、酒を零したりして正幸の顔に傷を負わせてはいけないというわけで、正幸の顔にハンカチを掛けて食事したそうである。正幸は最初は嫌がったらしいが、そのうち慣れて静かに食事が終わるのを待っていたという。
正幸が夫婦のどちらに似ていたかといえば、どうやら私の方らしかった。弘康兄が風呂に入れるときに正幸の顔は郁さんそっくりだ、といっていたらしいからそうだろうと思う。
6月帰ってきた幸子は7月にはまた実家に帰った。正幸の汗疹がひどく可哀相で、涼しい信州で過ごした方がいいと考えたからであった。
幸子と正幸が牟礼の家に帰ってきたのは、やや涼しくなった8月の末であった。正幸はすっかり元気になっていたし、可愛さはますばかりであった。ところが11月に入って風邪を引き夜中に熱が高くなり、ぐったりしてきた。近くに病院はないし、あわててタクシーで日赤病院へ連れていった。こんな事でこの年も慌ただしく暮れた。
年があけて1月の末、正幸が突然、炬燵の端に手をかけて立ち上がった。歩き始めるのは生まれてから1年くらいからと言われていたので、この時ほど夫婦で喜んだことはなかった。
歩き始めてから3カ月ばかりがたったある日の夕方、銭湯に連れていこうと正幸の右腕を掴んだところ、急にその手に力が無くなりぶらぶらしている。といって痛がる訳でもなく、泣くのでもない。こんなことは初めてで何が起こったのか分からず、急いで近くにあった整骨院へ連れていった。
先生は顔色一つ変えず、正幸の前にキャラメルを一つ出した。正幸は右手をぶらりとしたまま、嬉しそうにそれを左手で受け取って口に入れた。先生はにっこりして「右の脱臼だ」といって、ただちに治してくれた。そしてまた一つキャラメルを出してくれた。正幸は今度は右手で受け取って嬉しそうに口に入れた。一時とんでもないことになったなと思ったが、これでほっとしたと同時に腕は簡単に脱臼するものだと言うことが分かったのである。
- 思い出すままに 3-4
-
葛飾に家を建てるまで
その頃の親は子供に”パパ、ママ”と呼ばせるのが普通であったが、私のような田舎ものでがさつな男としてはそう呼ばれるのになぜか抵抗があった。そこで「お父さん、お母さん」と呼ばせることとした。幸子も大賛成であった。
正幸は言葉を覚えるのも早く、絵本が大好きであった。買ってきてあたえるとむさぼるようにして何度も読み返していた。ある日、三鷹の本屋に連れていって絵本を買ってやると、本屋を出た途端に道路に座り込んで読み始めた。そんなところで読まなくても家へ帰ってゆっくり読めばいいじゃないかといっても、読み始めたらテコでも動かないようなところがあった。これには親としては嬉しく誇らしいような思いであった。
正幸が3才になってから、私たちは葛飾の邦雄兄の庭をかりて小さな家を建てた。
私はかねてから早く自分の家を持ちたいと考えていた。そうかといって薄給の身で家を建てられるだけの資金など貯まるはずもない。手持ちの現金はゼロ。親から資金を借りる訳にもいかない。
ところがある日、邦雄兄から「俺の家の庭を貸してやるから」という願ってもない話があった。邦雄兄は葛飾の鎌倉町に家を持っていた。庭は20坪ほどだったが、私はこの話に飛び付いた。早速父に連絡したところ「土台は新宿にいる知り合いに頼んでやる。それができたら、直(なお。母の実家の甥)に建ててくれるよう頼んでやろう」との事であった。それなら当面の資金は必要ないし、最後は父が費用を出してくれるものと勝手に理解して、父のいう通りに事を運んでいった。
直ちゃんはある日、刻んだ建築材を車に積んで諏訪からやってきて、2日で家の骨組みを建てて帰っていった。そのあとは鎌倉町の大工に内装建築を頼んだ。内装建築は意外に時間がかかり2カ月くらい要したが、とにかく小さいながらもまずは住めそうな2階建ての家ができた。
ところがである。そろそろ引っ越しにかかろうかと考え始めていた頃、直ちゃんから手紙で、20数万円の建築費用を貰いにいくので「○○日」に新宿駅に持ってきて欲しいとの催促が来た。父がなんとかしてくれるだろうと思っていた私はこの手紙に狼狽した。あわてて資金集めに入ったが、この時に一番の助けになったのが、電話債券であった。そのころ電話債券がなければ電話を引く事はできなかった。政党書記が電話を持たない訳にはいかず、西尾先生の秘書的仕事があるのでという理由で電話債券を手に入れた。その債券はたしか15万円くらいだったと思う。非常に高かった記憶がある。
この債券を売って、給料の前借りをし、20数万円をなんとか工面して私はこの難関を乗り切ったのであった。
- 思い出すままに 3-5
-
<いとうせいこう注
父が書く通り、私は“邦雄おいちゃん”(高木邦雄)の家の庭に建った小さな住宅に住んでいた。事情を知ったのはずいぶん大人になってからだが、すでに子供の頃から私にはわずかな引け目が存在していた。なにかしら両親が話す言葉を耳に入れていたのだろう。
と同時に、私は叔父と叔父家族に強い憧れをもって育った。従姉妹にあたる陽子ちゃんは美しかった。陽子ちゃんはよくコーラを飲んでいた。60年代から70年代にかけて、私にはコーラというものが贅沢な舶来品にしか見えていなかった。私は陽子ちゃんがコーラを飲むのを見る度、どきどきした。小学校低学年の頃、私も一度陽子ちゃんにコーラを飲ませてもらった。泡の刺激に驚いて、私は液体を吹き出した。以来、私は炭酸飲料自体を好まなくなった。
ただ、数年前熊野の海で遊ぼうとした夏の朝、40代後半の私は誰に勧められたわけでもなく突然スーパーでコーラの500mlペットボトルを買い、駐車場の中でほとんどひと息でそれを飲んだ。おいしい、と思った。こんなにおいしいものをなぜ自分は飲まずに来たのか。その日から毎日毎日、私はコーラを飲んだ。夏が終わっても、飲食店に行けば私はほぼ必ずコーラを頼んだ。数ヶ月前まで、私は人が変わったようにコーラを飲み続けた。自分の中で何が変わったのかはわからない。
葛飾区に話は戻る。父が建てた住宅、つまり私が育った家の前には初め、ほんの小さな庭があった。今考えれば、本来は叔父たちが楽しむべき空間であった。だが、私たち家族の住宅がそれを密閉し、私たちだけの場所にしてしまっていた。叔父自身は日曜日の午後などに、たまに私の家に来て、母の出すインスタントコーヒーを飲んだ。縁側に座って庭を見ていることが多かった。煙草を吸っていたかもしれない。
私が叔父の長男である健ちゃんと同じある大学付属の中学に受かった頃だったか、その庭もなくなった。私の部屋が建て増しされたからだった。どういう話の流れだったかはまったく知らない。私の家は叔父の庭いっぱいに広がった。金銭的な余裕がない中の建て増しだったことは、住宅の角がトタンで覆われていた記憶でもわかる。風呂はなかった。
私は少し話を急ぎ過ぎた。父の語るテンポを超えて、私は書いてしまった。
だが、以下の思い出だけは今書き足しておこうと思う。
数年体調のよくなかった叔父が、昨年入院した。母は悔いが残らないように会いに行っておきなさい、と私に言った。実際私が見舞いに行ったのは、麻生政権が出来る少し前だった。部屋のドアを開けると、叔父はベッドに腰をかけていた。おいちゃん、僕だよと声をかけるが、数秒の間、叔父はぼんやりとこちらを見るばかりだった。正幸だよ、と重ねて声をかけたとき、叔父はぶるぶる震え出した。叔父の目や鼻から粘液が出始めた。私は常にお洒落だった叔父のその姿を見るべきでないと思い、とっさに扉を閉めた。
正ちゃんか、正ちゃんか、という泣くようなかすかな声が中からした。私はずっと扉の前に立っていた。どうしてよいか、私に方策はなかった。しばらくすると、叔父の声が大きく強くなった。あれが伊藤正幸だ、知ってるか、私の甥だと言っていた。看護婦らしき人がそうですか、などと相づちを打った。叔父は何度も何度も私の自慢をした。そのままでいると、私が泣いてしまいそうだった。私は扉を再び開けた。
叔父はすでにかくしゃくとしており、涙も鼻水も夢だったように消え失せていた。正ちゃん!と叔父は言った。うん、と私は答えた。今、君のことを##さんに教えてたとこだ、と叔父は信州なまりが残る語調で言った。また、うんとだけ私は答えた。そこから先は叔父のワンマンショーになった。昔、憲兵に殴られて以来、叔父は片耳の聴力を失っていた。だから、声がやたらに大きい。
叔父はまず、郵政民営化はどうしたって間違っていると言い出した。正ちゃん、君らがたださねばならんとも言い、総裁選を見る限り自民党内部はバランスを完全に崩しており、麻生も小池も本来あんなに票数を取るタマではない、俺が読んでいた票数と離れ過ぎていると言いきった。政権交代が起きた今からすれば、叔父の政治勘は鋭かった。
俺はな、正ちゃん、こうして病院に入ったことで老人福祉の現状をよくよく観察し、考え抜いたとパジャマ姿の叔父は演説し、ますます大声になった。80歳を超えた人の声では、とうていなかった。
もしも俺が命をながらえて退院出来たら、俺は老人問題をやる、しかし残念ながら寿命がそれほどあるとは思えない。叔父は私をじっと見すえてそう言い、だから俺が死んだら正ちゃんがやれ、と命じた。
じゃ、と手を上げたのは叔父の方だったと思う。言うだけ言って、叔父はベッドに横たわってしまった。
私もうんとだけまた答えて、それじゃおいちゃん、と言いかけた。何と続けていいかわからなかったので、私はまたねと言った。叔父はこちらを見もしないで、はいと答えた。
私が住んでいた庭の持ち主はそういう人である。>
- 思い出すままに 4-1
-
まず党の再建に全力投球・惨敗にめげず
民社党が最初に迎えた1960年(S35)11月の総選挙は予期せぬ惨敗であったが、私の東京都議会補欠選挙への挑戦が示しているように同志たちの闘志は健在であった。マスコミの一部には民社党の前途を悲観的にみるのもあったが、私たちは必ず立ち直ってみせると意気軒昂であった。
敗北の原因は社会党浅沼委員長が日比谷公会堂で演説中右翼青年に刺殺されるという不幸な事件によるものであって、民社党の思想・信条が国民に否定されたものではないと信じていたからであった。また民社党の結党を支持し選挙を全面支援した最大の支持団体全労はより強力な体制で民社再建を約束した。
民社党の本部には有識者の多くから激励の声が続々寄せられてきた。尾崎士郎は「私は民社党に好意を持っていました。意外に負けたので、これではいかん。本当に積極的に支持する気持ちになった」と語った。そして徳川夢声、平林たい子、唐島基智三,矢部貞治,菊田一夫、竹山道雄、佐古純一郎、蝋山政道らの学者・文化人が発記人となって「民社党を励ます会」を開いた。
とくに私たちに大きな勇気を与えてくれたのは次の菊田一夫の「民社党におくる」と題した詩であった。
庶民は政治というものを知らない
庶民は春の陽炎のなかに
いつも睡たげな眼をして
のどかに暮らしていればいいものだから……
政治が悪いとき
乱暴者が世にはびこるとき
庶民は ひょいと眼をさます
政治はどうなっているだろう
政治とは中庸の道ではないかしら
古すぎては困り
激しすぎては世の中がひっくりかえる
その中庸の道も
世につれて進んでゆく
政治は常に 世間より
一歩進んでよい加減
二歩進めば怪我人がでる
……といって
退歩すれば
支持というローラーにひきつぶされて死ぬ人も出る
民主社会党は中道の政党
中庸とは昼寝をしていることではない
政党が庶民のせっかくの特権を奪ってはならない
日本人は中庸を好む国民だ
自分個人の人生には
いつも中庸の道を選んでいる
そのくせ……
他人様を批判するときは
いつも 前か後ろか 右か左か 赤いか白いか……
それは……
自分個人の道を選ぶ道が
勇気のない卑怯さからの中庸の道だからである
自分自身に勇気がないから
他人様に 激しさ古さ 右か左かをもとめるのだろう
激しさには喝采が与えらえる
古さと頑迷には老人達の拍手がおくられる
意気地なしと言われながら
中庸の道を選ぶには
勇気がいる
民主社会党よ
日本国を
我々の国を
正しい軌道に進めるための
激しい闘いを起こしたまえ
国民は一億
ほんとうは みんな
破壊主義でない
頑迷でない
ほんとうの民主主義
新しい道が
好きなのです
- 思い出すままに 4-2
-
2、党機関紙記者と青年組織の活動家として
既に記したように、私は右派社会党中央機関紙『日本社会新聞』の記者としての活動とともに民主社会主義青年同盟の一員として活動、東京民社青同事務局長にも選出されたが、民社党の結党と同時に日本社会新聞は「旬刊社会新聞」と名を変えて民社党中央機関紙となった。私は引き続きその記者として採用された。そして身分は民社党書記局員となった。それまでは書記局員の身分でなかったから党に縛られずに自由に活動できたのだが、これからはそういうわけにもゆくまいとは思いつつも思う存分「総評批判」が出きる喜びがあった。
青年活動の分野では、民社党結党の翌日に「民主社会主義青年連合」(民社青同の名称を民社青連と変えた)を結成。初代事務局長となった。会長には海員組合の小川純一氏が選ばれた。
私たちは民社党全面支援の活動を展開した。活動資金は海員組合長中地熊三さんが「これからは青年が頑張らねば」となんの条件もつけずに出してくれた。その額は月30万円という多額であった。(いまならどの位の金額になるだろうか。それを惜しみも無く出してくれるこのような怪物が当時はいたのである)。このため私たちは民社党本部事務所(森ビル)の地下1階に事務所を設置し、3名の専従者を配置することができた。組織作りは順調に推移し、岡山民社青連の会長生末敏夫君は民社党の衆院議員候補者に選出された。
こうした私たちの希望に満ちた活動が始まったばかりの、緒戦の総選挙で民社党は大敗北したのであるが、私たちもくじけてはいなかったのである。私たちは「民社党に投票してくれた350万人の期待にこたえねばならない」との意思固めと同時に党外青年への一層の宣伝活動の活発化を誓ったのである。
- 思い出すままに 4-3
-
3、激しい東西対立を背景に・呼び合うこだま運動を組む
私たちを取り巻いていた諸情勢は一刻たりとも安閑としていることを許さぬものがあった。60年にはベトナム戦争が勃発、61年には東ベルリンの壁(東西ベルリン境界上43キロ)が東ドイツによって構築された。東ドイツから西ドイツへの亡命阻止の壁であった。そして62年キューバ危機発生。キューバにソ連が中距離ミサイルを配置、これに対して米ケネデイ大統領は海上封鎖を宣言してミサイル撤去を要求。まさに一触即発、核戦争まで予測され、世界は固唾をのんだ。
米・ソの核兵器開発競争も熾烈なものであった。ソ連が61年に49回、米国が62年に60回もの原水爆実験を繰り返したのであった。
こうした東西対立が日本国内に持ち込まれ、60年の安保改定には左翼陣営が総動員体制で闘いを組んだ。国会周辺には連日数万が動員されて騒然たるものであった。そして全学連のデモ隊が国会正面玄関を突破、警備隊との押し合いのなかで東大生樺美智子さんが押しつぶされて死亡。安保改定案は自民党の単独多数で成立していくが、岸内閣は総辞職に追い込まれる。
また62年の原水爆禁止世界大会は大会中にソ連が核実験を行うが、共産党勢力はこれを無視、対して日青協(日本青年団協議会)、地婦連(地方婦人団体連合会)などが「いかなる国の核実験にも反対すべきだ」と抗議して退場。原水協は分裂してゆく。
こうした情勢のなかでの民社党勢力の復活には幾多の障害があった。しかし共産主義陣営のこれ以上の勢力拡大を許すわけにいかないとの私たちの思いには切羽詰ったものがあった。
その思いの中で、全労の青年婦人部の仲間たちと私たちが起こした運動のひとつが「呼び合うこだま運動」であった。この運動は当時、共産党の「民青」が集団就職で都会に出てきて孤独に陥りやすい青年男女を巧みに誘導し、「歌って、踊って……」の遊びに参加させて民青会員(共産党員)にしていくという活動が全労の青年婦人活動を脅かしつつあったのに対抗するためのものであった。
全労のなかから、民青に対抗して真の文化運動を起こそうとの動きが起こって「全国勤労者文化協会」(全文協)がつくられ、どのような活動をやるか模索しており、私たちにその案づくりの相談が持ちかけられたのである。ちょうど民社青連は2年目の活動として蓼科高原キャンプ大会を目論んでいた。私の親戚が長野県茅野市奥蓼科の持山を利用して「みどり山荘」というキャンプ場を経営していたので、私の提案で計画したものであった。
この計画を全文協で持ち出したところ、この際友好団体が互いに協力しあって一つの行事としたらどうかということになり、全文協、全労青婦、民社青連に加え青学会議、日本婦人教室,海友婦人会、民社研で実行委員会を組織し、「第一回呼び合うこだま働く者の山の集い」が開催されたのである。全体として400余名が参加、大成功であった。
集いの趣向も青年らしい創造的なものだった。まず集まってきた青年-婦人たちの”自治村“という想定で村三役として村長赤松常子(日婦)、助役伊籐郁男、収入役船田登美(日婦)、公安委員長綿引伊好(全文協)をおき、バンガロー毎に参加団体が自由な集落名をつけた。民社青連はこれから育つという意味から「ひよっこ部落」と命名した。グループ活動は絵画、彫刻、和歌、詩、コーラス、盆踊り、フォークダンスなど。夜はキャンプファイヤーを囲み、夜空に二十発の花火を打ち上げた。この花火は長野の私の仲間のサービスであった。
この集いの成功によって、呼び合うこだま運動は各地域に急速に広がってゆき、やがて各産別の青年婦人行事のひとつとして定着していったのである。
そして、この年は夏に民社・全労が中心となって「核兵器禁止・平和建設国民大会」を開催、10月に「核禁会議」を結成(前述)、私は事務局次長となり、以後今日まで核兵器禁止運動を続けることとなる。
- 思い出すままに 4-4
-
3、党再建の第一歩・63年総選挙
62年の参議院選挙、63年4月の統一選挙では党再建が始められたばかりであり、参議院選挙は全国区3名、地方区1名の当選に留まって、統一地方選挙も成果は乏しかった。
私は参議院選挙では古賀専(全国区候補・造船総連会長)の秘書役として加わり、地方選挙では武蔵野市の伊籐重雄さんの参謀として活動した。古賀さんは落選、伊籐さんは当選した。
党の浮沈は次の総選挙にかけられることとなった。その機会が63年11月巡ってきた。私は選挙中は各候補の健闘ぶりを取材して書き、またしばしば党本部に寝泊りして各選挙区との連絡などにあたった。21日投票、翌22日が開票、この日の興奮はいまでも脳裏に鮮やかである。
選挙区をしぼり、59候補を擁立した闘いで23名当選、次点者11名。自民283名(13減)社会144名(1減)のなかでわが党だけが5議席増の成果であった。選挙前のマスコミの「5名くらいになってしまうのではないか」の予測を完全に覆したのであった。勝利の喜びの中で開催した全国代表者会議で、西尾委員長は「トンネルを抜け出て原野に頭を出した。暗い谷間から小高い丘に駆け上がったところだ。前がよく見えるようになった。これからだ。全党員心を一つにして次に備えよう」とのべた。
民社党一本支持で闘った全労は10年の歴史を閉じ、翌64年総同盟と合体して「同盟」を結成、180万組織となり、民間の労働組合数では総評を凌駕するにいたった。民社支持母体はより強化されたのである。
- 思い出すままに 4-5
-
4、また新たなる目標に向かって・党30議席確保の戦果
63年の総選挙は党再建の一歩であり、これを基礎にしての新たなる目標が設定されてゆく。
自民党政権はそのまま。対する社会党は三分の一。野党の壁を破れず、相も変わらぬ左右対立を繰り返していた。62年、鈴木茂三郎を団長とする訪中団は60年の浅沼訪中団が中国との間で発した「米帝国主義は日中共同の敵」宣言を確認、右派江田三郎書記長らと激しい対立となった。
江田は「新しい社会主義ビジョン」を明らかにした。これはイタリア共産党書記長トリアッチの理論を模倣したものであったが、社会党の到達すべき目標として「アメリカの高い生活水準」「英国の議会制民主主義」などをあげた。これは今までの社会党になかった思想であり、総評左派・社会主義協会派から「改良主義だ」として総攻撃された。
こうした状況の中で私たちは、自民党一党支配体制を打ち破るために私たちの勢力拡大の必要性を痛感せざるを得なかったのである。
そして、党本部書記局内の私の役割も変化していった。青年運動の分野では、民社青連事務局長から63年に新たに発足した「民社青年隊」(党の行動力強化)の参謀へと転じた。
また、機関紙局事務局長から国民運動事務局長となり、核兵器禁止運動、呼び合うこだま運動に従事した。ついで組織局第一部長となった。
当面の最大の課題は次の総選挙にいかに勝つかであった。
64年は新幹線が開通、東京オリンピツクが開かれ、日本は戦後の貧困と混乱から抜け出しつつあった。このなかで民社党は運動方針で「福祉国家の建設と到達目標」を政策の中心に据えた。また組織拡大の目標として「一選挙区一千人党員」の達成、「百万党友」の実現をかかげた。私たちはこの大きな目標に向かって寧日なき活動に参加したのであった。
- 思い出すままに 4-6
-
5、チャンス到来・兵庫1区永江選対へ派遣さる
そうして、こうした努力の成果を試す機会が巡ってきた。それが67年1月の第31回衆議院選挙である。
66年に自民党代議士の相次ぐ汚職・職権乱用事件が発生し、田中彰治、農相松野頼三、運輸相荒船清十郎などが相次いで逮捕、辞任に追い込まれた。これを新聞は「黒い霧」と呼んだ。自民党一党独裁の弊害が爆発的に噴出したのである。
野党は11月の臨時国会で黒い霧の追及を要求するが、佐籐首相はこれを無視し与党単独で補正予算審議を強行した。しかし沸き立つ世論に抗せず、年末押詰まった12月27日遂に衆議院解散となり、明けて1月8日公示、29日投票の選挙となった。
私は急遽、兵庫1区永江一夫の選挙オルグとして派遣された。永江先生は戦後社会党内閣の農林大臣となり、民社結党の立役者の一人であった。60年選挙で落選、63年でも涙を呑んだ。当時は党本部の組織局長であり、私の直接の上司であった。なんとしても復活を遂げねばならない。
オルグに決まるや党兵庫県連からすぐ飛んで来いとのこと、一刻の猶予もない、28日に新幹線に飛び乗り神戸三宮の党事務所にかけつけたのであった。事務者は突然の解散で党幹部や党員がかけつけ、ごった返していた。先生に挨拶し、当面の宿舎(ホテル)を紹介された。そして31日と1日だけ家に帰って来てよい。2日から常駐だ、との命令であった。30日夜家に帰り、家族4人であわただしい年末年始を過ごすと、2日の夕方には三宮に戻った。妻幸子は愚痴ひとつ言わず、万全の旅支度を整えてくれた。
3日は6時半から三宮駅頭の朝立ち。そのあと事務所で朝食。そのあとは夜遅くまで職場へのオルグ、ビラ張りなどなどとにかく休む暇なしの強行軍がつづいた。長野県出身の私だったが、この年の神戸の寒さはこたえた。しかし夜になると若い同志たち、民社青連で共に活動してきた仲間たちがやってきて、三宮の飲み屋で時には神戸牛のビフテキや時にはスッポン料理で励ましてくれた。こうした兵庫の同志の暖かさが翌日の活動の原動力となったのである。
こうして28日間のオルグを終えて投票日には家に戻って、投票(東京10区に党候補がないため、西尾末廣と書く)を済まし、翌日は党本部で各候補者の開票結果を待った。永江先生は見事に復活当選し、民社全体として30名が当選した。党の前途にようやく灯りが点ったのである。この選挙では公明党が初めて衆議院選挙に参戦、25名を当選させた。そして自民党は得票率50%を切り、社会は4議席減であった。
永江先生に教えられて未だに忘れないことは次の言葉である。
<その1>
「政治とは何ぞや」と問う
「政治とは生活のことなり」
「生活とはなんぞや」と問う
「生活とは衣食住のことなり」
簡単明瞭、政治は国民の生活を守り、高めること以外のなにものでもない。この頃の党首たちが盛んに「国民の目線に立って」ともっともらしく強調するが、そんなことは政治のいろはなのである。
<その2>
「選挙に当選したらみなさんのおかげ」
「落選したら不徳の致すところ」
決して、天狗になったり、応援してくれた人を批判してはならない、という教え。候補者の基本的心構えである。
- 思い出すままに 4-7
-
6、続いて統一地方選挙・都知事選対へ派遣さる
私たちに総選挙の勝利に浸る暇などなく、4月は結党以来2度目の統一選挙であった。この選挙では都道府県議98名、政令市議58名が当選し、地方組織も前進体制を整えつつあった。
私は東京都知事選に急遽候補者となった松下正寿選対に派遣された。松下先生は私たちが作った核禁会議の初代議長・立教大学総長であり、党とは深い関係にあった。その松下先生に東竜太郎知事引退のあとの駒探しに迷ってすったもんだを繰り返していた自民党が白羽の矢をあて民社に協力を求めてきたのであった。松下先生も相手が社・共推薦の美濃部亮吉ならばと引き受けたのだ。
保守か社共かまさに天下分け目の戦いとなった。この選挙でマスコミの大半は美濃部に好意的で、最初から松下不利の情勢がつくられていった。私はこの選挙を通じて首都決戦というものの実態のすさまじさを知るのであるが、その一つがスパイ合戦であった。相手陣営にスパイを紛れ込まして相手候補の行動・戦略を自陣営に知らせ,相手の裏をかく。また弱点を握ってそれを針小棒大に宣伝する。また何々地区では選挙違反で何人も調べられている、といったデマを流して活動をにぶらせる、などなど。すさまじいものであった。
また、自民党の金の使い方にはびっくりさせられた。私のような立場で自民党本部からもオルグが派遣されて來たが、彼の袖机にはいつも札束が用意されていたのである。私たちは金には全く無縁で、熱意と行動の多寡が勝負の基本であったから彼の行動は真に信じられないものであった。ある日、選挙ビラが印刷会社から100万部届けられた。そのビラに一箇所誤字があると指摘するものがあった。すると彼はそのビラ全部の印刷変えを命じたのである。われわれなら一箇所はもとよりかなり目立ったミスでもそのまま使うのであるが、なんと無駄なことを平気するものか、と思ったものである。しかしこの話はこれで終わったのでなく、実は彼と印刷屋はあらかじめ示し合わせていて僅かの部数を誤字にみせかけ、全部数を印刷換えしたこととして、それに見合うニセ印刷費を本部に請求して山分けしていたのであった。
松下先生は美濃部に敗れたが、翌年の参議院東京地方区選挙で勝利した。
- 思い出すままに 4-8
-
8、西尾体制から西村体制へ・IUSY青年祭へ事務局長として初の外遊
統一地方選挙のあと、西尾委員長は5月の中央執行委員会で正式に辞意を表明し、了承された。結党以来7年5ヶ月、まさに「百折不撓」の信念で民社党を復活させ、なお余力を残しての惜しまれた勇退だった。76歳であった。
新しい体制では委員長西村栄一、書記長春日一幸となった。私は組織局第一部長となり、青木局長を補佐して党勢拡大の裏方に徹した。西村委員長のもとで迎えた選挙は翌68年参議院選挙で党は全国区4名、地方区3名を獲得。非改選議員を加え10議席となり、民社党は初めて参議院で院内交渉団体の資格を得たのであった。自民は2議席減、社会8議席減、公明13議席、共産4議席で参議院での多党化がすすんだ。
私は松下選対オルグで活動、選挙が終わるやその直後にオランダで行われるIUSY世界青年祭に日本代表団の事務局長として派遣されたのである。7月21日から8月8日まで、団員約30数名を引き連れての海外出張であった。団長は折小野良衆議員だった。
私にとっては初の外遊であった。当時はすべて羽田空港からの出発であり、家族 ・友人たちが必ず見送りにきた。幸子は小学校1年の正幸と幼稚園児の美香を連れ、邦雄兄と見送りにきていた。空港ロビイで壮行会が行われ、永江組織局長らの激励挨拶があり、万歳の声で送り出された。なお現地での土産代などの雑費用はすべて同志のカンパで賄われた。
さて、民社青連結成と同時に私たちはIUSY(国際社会主義青年同盟・社会主義インターの青年組織)へ加盟申請して認められた。社会党青年部は加盟を認められなかったから、われわれが日本における唯一の加盟組織であった。当時IUSYは52カ国、80青年団体を包含し、メンバーは100万人を突破していた。
IUSYは3年に一回、キャンプを主体として数千人規模の青年男女を集めての世界大会を開催していた。民社青連は結成と同時にこれへの参加を決定した。最初の参加が62年の世界大会であった。直ちに実行委員会を組織し、民社党、民社研、全労青婦、日本婦人教室,青学会議、私学連、農民同盟など14団体代表102名をコペンハアゲンの大会に送った。ついで65年にはイスラエルへと送り出したが、3回目の派遣では私がその派遣団の事務局長に指名された。私たちは10日間のキャンプのあとロンドン・パリを観光し、ドイツでは社民党の本部を訪問して伝統ある社民党の組織のあり方を勉強した。
10日間のキャンプは、テントに寝泊りして昼間は討論会、夜は野外交流会というものだった。びっくりさせられたのは豚の丸焼きであった。丸焼きしながらナイフで肉を削って食うのである。農耕民族の私たち日本人にはその習慣はないが、狩猟民族は違う。私はそこにたくましさを感じたのであった。
このドイツではドイツ社民党の特別ルートで東ベルリンへ入れる方法があるといわれた。早速志願した私と大松君が社民党の同志に案内されて東ベルリンに入った。真っ暗なトンネルのなかに検問所があり、厳重な身体検査を通過して東ベルリンの市街地に入る事が出来た。あちこちの街角には破壊されたビルの瓦礫が積まれてあって、復興が全く進んでいない東の衰退ぶりを実感したのであった。この経験は貴重であった。
追記 西村委員長のこと
西村委員長が後世に残した業績は「人材教育」であった。党書記長のときから党員の一貫した教育の必要性を説き、委員長に就任すると同時に自宅を抵当にいれて御殿場に土地を購入、ここに教育施設(富士政治大学校)をつくったのである。青年を対象とする中央党学校はこの施設で定期的に行うことが出来るようになったのであった。
今でもこの施設は健在で民主的労働組合の教育講座が常時開催されている。道場には森戸辰男(元広島大総長)筆の『三訓五戒』がかかげられている。
三 訓
1、己れを捨てよ
1、反省を忘れるな
1、最後までねばれ
五 戒
1、時間を守れ
1、言訳はするな
1、愚痴をこぼすな
1、陰口をつつしめ
1、けじめをつけよ
これは私の座右の銘でもある。
私はこの党員教育でしばしば教壇に立ち、また研修生と寝泊まりしながら口角泡を飛ばして議論したものであった。
<いとうせいこう注
しばらく私の注がないのは、父の書いている時代に私が幼児だったからだ。記憶がないのである。
だが、ここにはもうひとつ隠れた理由がある。お気づきの方もいると思うが、父こそが私のことなど眼中にないのだ。今回ようやく私がちらりと文中に登場したが、単に“見送り”である。私には記憶がない上に、父がその“見送り”を重要視した様子もない。
彼は社会的運動に没頭している。子供のことなど考えてもいない。母にまかせっきりだったのだろうと思う。
その母にも今、原稿を書いてもらっている。
この時期の父が家庭においてはどんな人物だったかについては、その母の文でおいおい補っていきたい>
- 思い出すままに 4-9
-
6、69年の年末選挙で更に前進・沖縄復帰運動に参加
西村委員長時代の総選挙は69年の年末(12月27日)に行われたが、党は32名の議席を確保した。民社党は第三勢力の地位を確立し、長期腐敗の自民党と反対のための反対勢力社会党という二大勢力による不毛の対決政治を終わらせ、真の議会制民主主義政治を実現する役割を担うこととなったのである。
西村委員長は委員長就任と同時に自ら団長となって沖縄を訪問、野党党首として初めての訪沖であり、この際の「沖縄の返還は核抜き本土並みとすべし」との提案がやがて国民世論となり、佐藤首相を動かして72年の沖縄本土復帰へと連動したのであった。
私たち青年党員も毎年「沖縄青年使節団」を組織して復帰運動の一翼をになったが、私は70年に約30名の第5次青年使節団の事務局長(団長・西田八郎衆議員)として訪沖した。この時には台風が襲来し、鹿児島で2日間足止めを食っての船旅であった。西田団長は飛行機で先行してわれわれを那覇港で迎えてくれたものであった。
民社党の沖縄調査団は第1次から第7次に及び、青年使節団も6次にわたった。
現地での交流は、当時沖縄の大きな政治勢力であった沖縄社会大衆党の主要幹部と沖縄同盟(海員組合、電力労組、全繊同盟など)の幹部などが中心であった。
党のこうした沖縄復帰運動は70年に行われた国政参加選挙(復帰の前段で行われた衆議院選挙)で当選した社会大衆党委員長安里積千代氏の民社党国会議員団加入に繋がったのである。
<伊藤幸子注:(前節4-8に付けるべきものとして、母からの原稿が先日届いたので足しておきたい)
夫の初めての海外出張のときには大変心配でした。自分の身の回りのことが何も出来ない人でしたからです。
IUSYの国際的な集まりで10日間もオランダの地方でキャンプを張るということでした。私はIUSYという国際組織のことは良く知りませんでしたが、夫にとってはかなり重要なようでした。それに参加する日本代表団の事務局長でしたから、私はただその任務を果たして無事帰ってきて欲しいと祈っていました。
羽田出発の時には兄邦雄が私と小学一年生の正幸と幼稚園児の美香を見送りに連れていってくれました。
幸い夫は何の怪我もなく無事帰国しましたが、家族へのお土産は“赤い木靴”ひとつだけでした。夫はそうしたことが大変不得手でしたので土産などは最初から期待してはおりませんでしたので、何も言いませんでした。
ところが旅行鞄の中から煙草と洋酒がたくさん出てきたのにはいささか驚きました。しかしそれは餞別を下さった仲間などへのお返しだろうと思い、納得したのでした。
私としては無事帰国出来たことが何よりのお土産だったのです>
<いとうせいこう注:
私は見送りに行ったことを覚えていない。
ただ、“赤い木靴”のことはよく覚えている。それはずいぶん長く家にあった。どうやって遊ぶということもない。たぶん初めは妹にはかせたりしてみたのだろう。だがやがて、靴は私たちには小さくなった。
にもかかわらず、それは捨てられずに家の中にいつまでもあった。私たちはどこかでそれを特別なものとして扱っていたのである。父の初の外遊の土産だったということを、私たち兄妹はすっかり忘れていた>
- 思い出すままに 4-10
-
7、春日委員長体制の中で
71年4月27日、西村委員長が逝去された。67歳。統一地方選挙の終わった直後であった。肝臓ガンを病まれながら党の最前線で指揮を執られていた。
この地方選挙で党は大きく前進した。都道府県議140名(20名増)、市会議員470名(75%増)が当選。地方議会でも民社党が定着しつつあることを示した。その成果を聞きながらの逝去であった。
西村委員長は53年の「バカヤロウ」解散の立役者として名をはせ、社会党右派の論客として、特に防衛・安保では自衛権問題などで常に明確な方向を示していた。党では選挙対策委員長、組織局長、国会議員団長、書記長を歴任、67年から委員長を5期務められた。私たちには常に「私の歩んだ道ではなく、私が志した道をたずねよ」と教えられた。
党は6月の参議院選挙(全国区4、地方区2当選)のあと、8月に臨時党大会を開き、委員長に春日一幸(投票で春日330票。曽祢益216票を破る)、書記長佐々木良作を選出した。
振り返ってみれば民社党結党からすでに10年が経過していた。この間の同志の悲願は結党時の衆議院議席40に一日でも早く到達することであった。だが、それまでに3回の総選挙、3回の参議院選挙、そして3回の統一地方選挙を必死の思いで闘ってきたが、展望は開かれなかった。
政党は選挙で国民の支持を得る以外に生きるすべはない。そして政党本部書記局の役割はそのために最大限の智慧と労力を発揮することなのである。
もちろん執行委員長を頂点とする執行部に最大の責任があるが、その執行部を支えるわれわれ裏方が大事なことはいうまでもない。10年間で選挙のなかった年は4年だけだったが、その4年は選挙準備の年であり、政党はまさしく「常在戦場」なのであった。
その寧日なき闘いがまた始まるのであった。40議席の悲願には到達していないとしても希望の持てるところまで上がってきたのも事実である。希望は失われていないのだ。
まだまだ長く、政権交代のないいびつな日本政治が続いていく。
<伊藤幸子注:
党本部の選挙対策に集中して、家のことなど顧みる暇のなかった夫だが、私はちょうど正幸、美香の子育てに夢中であった。最初の頃は夫からの生活資金では足りず、例えばお風呂に行くにも石けんがなかったこともあったほど。そんな時には子供にだけは不自由させないために私は一食抜いた。かなり痩せました。田舎の母が家に来た折など、心配してこっそり小遣いを懐に入れてくれたものです>
<いとうせいこう注:
父は社会のことで頭がいっぱいであり、それは青年の闘志として美しくもある。だが、母の証言と重ね合わせるとどこか滑稽味も出てくる。不均衡なのだ>
- 思い出すままに 4-11
-
8、それから10年も瞬く間に
70年代は激動の10年であったが、私にとっては40歳代の働き盛りでもあった。体力にはもともと自信があり、病気知らず、酒は親父譲りで一升程度では酔い崩れることなどなかった。
春日体制の最初の試練は72年12月の総選挙であった。自民党内閣は佐藤から田中角栄に代わった。田中内閣の日本列島改造論は激しいインフレを引き起こし、庶民生活を直撃した。しかし電撃的な日中国交回復を実現した今太閤田中の人気は衰えず、土木建築業界の期待も高まるばかりであった。こうした情勢下で行われた選挙で民社党は29議席を19議席に減らして敗北した。公明党も49議席から29議席となり、共産党が14議席を38議席とした。
私はこの選挙で長野第4区小沢貞考選対へ派遣された。私は結党以来長野県連とは常に関係を持ち、県連の諸行事には必ず参加するようにしていた。松本を中心とする4区選挙区は定員3名の厳しい選挙区、小沢先生は社会党時代に当選したが、民社党に参加してからは落選続きであった。今度こそはと準備を重ねてきていた。そして私にぜひ来て欲しいと強く要請された。本部もそれを了承して派遣が決まったのである。松本は私の始めての就職地であり、知人・友人も多く、楽しく選挙活動を行うことが出来た。しかも党全体の後退の中で見事な勝利を勝ち取ったのであった。
ただ、12月の信州の寒さは半端ではない。しかし選挙というものはその寒さを克服させる魔物のようなものであることを実感したものである。
選挙区は北アルプスの麓町・大町から南は木曽郡までの広大な範囲であり、いうなれば雪道をかきわけての選挙活動であった。私は早朝の街頭演説、宣伝カーからの連呼、夜の個人演説会での前座などなんでもやった。夜遅くまでの選挙戦術会議、それを終えてからの一杯の酔いに充実感を満喫した。
しかし、党は再び再建へ歩を進めることになるのであった。
目前に74年の参議院選挙が迫っていた。それだけに党再建に賭ける同盟の意気込みは従来とは違ったものがあった。
民社党結党以来、全労・同盟は参議院全国区に必ず4名の組織内候補を擁立して闘い、68年選挙以来全員当選の成果を挙げてきた。候補者擁立産別は全国的基盤を持つ全繊、電力、自動車及び造船重機、海員、鉄労に限られていた。他の産別は4グループに分かれていずれかの候補者を支援した。民社党が総選挙で敗北したとはいえ、同盟は総評・社会党との対抗上1名の落選も許されない。共産党の異常な躍進で組織が侵食される恐れもあった。したがって同盟は選挙態勢の見直しとともに民社党員の拡大運動にも力を注ぐこととなったのである。
私は引き続き組織第一部長として同盟の党員拡大運動に期待した。そして佐々木書記長とはしばしば党組織の在り方をめぐって意見を闘わせたものであった。
佐々木書記長は私たちとの論議に真剣に対してくれた。論議は新橋の飲み屋で激論になったこともあった。私はこうした態度の書記長に好感がもてた。書記長が松本高校(旧制)で学び、信州をよく知っていたこと、俳句に親しんでいたことなども親近感がもてた理由であった。
佐々木書記長との論議のなか私がまとめた組織方針の一つは「政党の日常活動」についてであった。支持団体などから常に指摘されていたのは「党の日常活動の不足」であった。では一体どのような活動を党の日常活動というのか。宣言カーを毎日動かすことか、演説会を開催することなのか、党員を増やしたり、党機関紙を拡張することかなどなど、それらはいずれも日常の党活動に違いないが、もっと体系的に説明できるものが欲しかった。私は考え抜いて次のようにした。
<政党の日常活動>とは
1、常に党員・支持者の声を聞く。
2、その声を整理・整頓して優先順位をつける。
3、その優先順位ごとに順次政策化する。
4、それを党議員および友好団体などを通じて議会に持ち込み、実現する。
5、実現のための宣伝活動を活発に行う。
6、その成果を通じて新しい党員・支持者を増やし、議員を増やしていく。
また佐々木書記長とは党員は1選挙区ごとにどのくらい必要なのか。そのなかで党の中核的党員の数はどのくらい必要なのか、といった基本問題の議論をしたこともあった。
佐々木良作という人は物事を突き詰めていく人で、自分の意見が理解されないときには頭から湯気を出すかのように激高することがあった。「瞬間湯沸かし器」と言われていたのだが、なぜか私たちとは常に冷静であった。
- 思い出すままに 4-12
-
9、70年代の出来事・春日は共産党と対決
振り返ってみると70年代というのは特異な年代であった。さまざまな転換があったがそれを羅列すると、
*70年に入るや、65年11月から続いてきた日本の“いざなぎ景気”が終わり、74年にはマイナス成長へ転じた。労働組合の賃金交渉は30%もの史上最高の妥結賃金時代から一転して半減するきびしいものとなった。
*また72年には5月15日に沖縄が日本に返還され、75年にはサイゴン陥落でベトナム戦争が終結した。南ベトナム支援で兵力投入の米国が敗退した。
*さらに72年2月には連合赤軍の浅間山荘事件があり、74年にはルパング島から小野田少尉が帰還した。
*72年7月、佐藤内閣が田中内閣に代わった。福田赳夫絶対有利と思われていた総裁選挙で田中角栄が圧勝したのである。そして前述したように12月総選挙が行われ、公明、民社が敗北し、共産党が38もの議席をえた。
*74年、飛ぶ鳥を落とす勢いの田中が金脈問題で辞任に追い込まれ、三木内閣となる。76年7月遂にロッキード問題で田中は逮捕されるが、田中逮捕を容認した三木首相は自民党内の激しい三木降しにあい、福田内閣となった。その前6月には、自民党から河野らが離党して新自由クラブを旗揚げした。
*75年11月、国鉄労組がスト権スト、国鉄全線を止めた。これがやがて国鉄民営化へと繋がっていく。
*76年の私たちにとっての大きな出来事は、春日委員長が1月27日の衆議院に於ける代表質問で宮本共産党委員長の「リンチ事件」を取り上げ、政府の見解をただしたことであった。昭和8年、当時共産党中央委員の宮本が仲間の佐藤達雄をリンチにかけ死に至らしめたといわれる事件であるが、この事件の真相はあいまいのままであった。それを文芸春秋で立花隆が「日本共産党の研究」の中で取り上げたのをキッカケに、春日が追求したのである。宮本らは佐藤はリンチと関係なく異常体質のため死んだのであると抗弁したが、共産党が仲間をしばしばリンチにかけてきたのは明らかで、佐藤がそのリンチで殺されたというのが真実ではないか、それを明らかにしたいというのが春日の狙いであった。
共産党は狼狽し、あらゆる手段を講じて春日への反撃を仕掛けてきた。しかし春日ははじめからそれを想定しており、こちらからさらに追い討ちをかけ、予算委員会の場で塚本三郎をたててさらに追及した。共産党の民社攻撃はその後熾烈を極めたが、民社党は「歴史を偽造する日本共産党ーリンチ事件をめぐる九つの嘘」を出版。この本はあっという間に売り切れたのであった。タブーに挑戦した春日の勇気はさすがであった。
かくしてこの年の11月15日公示、12月5日投票の総選挙でロッキードの自民党は22議席減、共産党は21議席減。そしてわが党は10議席増の29議席となったのである。
*日本社会党内の左派社会主義協会と右派江田三郎派との対立が再燃、77年3月遂に江田が離党、社会民主連合(社民連)を結成、江田はその直後逝去、社民連は田英夫を代表として発足してゆく。
こうした様々な背景のなかで77年の参議院選挙を迎えた。私はこの選挙で東京選挙区木島則夫選対に派遣された。木島は6年前NHKのキャスターから民社党の参議院候補者となった。木島はTV放送界で初めて街頭放送をやるなど、そのソフトな語り口とスマートさで抜群の人気があって見事当選したが、2期目の今回は極めて厳しいとの予想がなされていた。私は党本部からの事務責任者であったが、選挙の実働部隊は東京都連であり、私は事務所の雰囲気を盛り上げることと、本部との連絡にあたった。
幸いこの選挙でも木島の人気は保たれていて三位当選を果たした。
選挙事務所の一切の事後処理を終えたとき、その安堵感から私はむしょうに煙草が吸いたくなった。同僚からホープ一本もらって吸った。頭がぐらぐらしたがやがてそれも納まった。苦労して禁煙に成功していたがこれでまた喫煙者となってしまった。
この選挙が終わってから3ヵ月後、突如春日委員長が辞任表明した。女性問題がその原因であった。かくして11月の臨時大会で佐々木が委員長となり、書記長には塚本三郎が選出された。
そして佐々木体制の中で79年総選挙を迎えることとなったのである。
- 思い出すままに 4-13
-
10、ようやく春を実感しながら
79年10月の総選挙の結果は大きな希望になった。
この選挙で私は長野県第四区の小沢貞孝選対に派遣された。8月の下旬から選挙の終わるまでの約40日間、一度も帰京せず連日睡眠時間4時間のきびしい戦いに耐え続けた。
それは小沢先生にとっても政治生命をかけた戦いであった。当選の次は落選、その次は当選というエレベーター選挙をやってきた小沢先生であり、72年で当選された先生は76年の選挙では落選されており、今度敗れれば引退といわれ、ご本人もそのように覚悟されているようであった。しかしそんなことになれば民社党長野県連は壊滅の危機を迎える。なんとしても勝たねばならない。
私は総選挙の度に何回となく小沢選対と関係を持った。そして不思議にも私が選対に張り付け(派遣オルグ)になった時は当選、ならなかった時は落選であった。そんな奇妙な因縁を小沢先生も知っていて“来てくれていて座っていてくれればいい”とそれとなく本部に私の派遣を要請していたようであった。当時私は千葉の加藤綾子選対に拘わり合いを持っていたが、解散の見通しが次第にあきらかになってきた8月下旬に松本に入り、10月の選挙が終わるまで選挙対策に専念したのである。
この選挙で小沢先生は7万9千票を獲得して見事第一位で返り咲いた。その上、党全体としては10議席増の36議席獲得の輝かしい戦果であった。念願の結党時の議席に限りなく近づいたのであり、私は久方ぶりに体の中から湧き上がる喜びを味わったのである。20年の冬の時代を経て、民社党にも春がめぐってきたことを実感したのであった。
しかし春といってもほんの春の入り口であり、肌寒さの残る浅春というべきであった。民社党にとってそれからがまさしく本当の勝負時である。民社党がお手本にしてきた西欧の友党、すなわち西ドイツ社民党にしてもイギリス労働党にしてもそれぞれ100年を越す歴史を持っているのであり、それに比べれば民社党はまだ中学生といったところであろう。
激しかった10月の選挙の疲れを癒しながら私はこれからの私自身の人生というか、私自身の果たすべき役割について深く思いをめぐらせた。来年は50才になるし、人生の最終コースを自ら選択しなければならないと思うのであった。そして得た結論は、党組織拡大のために裏方に徹すること、それが私に与えられた使命である、ということであった。
私もやがては表舞台でという願望を持った時代もあった。長野県では県会議員や衆議院議員候補にという話も合った。今回の選挙の前には長野県3区の候補者に内定していたG氏が突然候補者辞退してきたため、衆議院候補者選考委員長の春日先生の命を受けてG氏の説得役となったが、どうにもならず断念せざるをえなくなった。すると春日先生は“それでは伊藤が次の候補者だ。真剣に考えろ”となった。強引な話だとは思いつつも、私も無下に断るわけに行かず、親戚の人たちに集まってもらい、また地区同盟の主要メンバーにも意向を打診した。しかし大方は反対であり、私はこの話を断念して春日先生に報告した。
一方、私は77年には組織局次長として和田春生、ついで柳沢鍛造の両組織局長の下で党勢拡大に心を砕いた。74年の衆議院選、75年の参議院選を通じて党は一定の地歩を固めたが、党員数は依然として3万名前後に低迷していた。毎月の新入党者は結構な数にのぼっていたが、それと同じ程度の離党者があり結果として党員数は3万名に留まる、という状況を繰り返していた。78年には選挙はなく、79年4月には統一地方選挙が予定されていた。この時期に本腰を入れて党勢拡大を図り、それを統一地方選挙の勝利につなげたい、これが私と和田局長との一致した戦略であった。しかし今までと同じことをやっていたのでは成果は見えている。そこで党勢拡大月間を設定して、同盟各産別との個別の話し合い、総支部強化のための研修会などを行った。その内容をくわしくのべるわけにはいかないが、この試みで党勢は飛躍的に拡大した。
私はこの経過を通じて、党勢拡大への確固たる視点を持つことが出来た。これが、俺はこれからは“裏方に徹していこう”との決意になったのであった。
<伊藤幸子注
夫は総選挙、参議院選挙、四年ごとの統一地方選挙とその準備期間、一年中選挙活動に明け暮れておりました。そして国会議員選挙の時などはしばしば二ヶ月や四ヶ月くらいの出張は当たり前でした。その間、電話や手紙は一通も来ません。それでも私は政党本部に勤めているからにはそれが当然のことだと、割り切っていましたから特別なことだとは思いませんでした。今考えてみますと、少々のんびりしすぎたように思いますが>
<いとうせいこう注
このあと、父の人生は思いがけなく変化する。
そして、私自身は79年にはもう18才になっているのだった>
- 思い出すままに 5-1
-
5-1 しまった、街頭演説に間に合わない!
昭和五十五年六月二十四日の朝、目を覚まして時計を見た。針は午前八時を指していた。その瞬間、私は頭をハンマーでなぐられたような衝撃を受けた。
「しまった、たいへんなことになった。この時間ではもう朝の演説に間に合わない、さあ、どうすべきか」
胸がドキドキ高鳴っている。
「どうしたことだ、今までこんな失敗をしたことはないのに……」
長い選挙期間中、私は出発予定時間の一時間前に必ず起きた。そして洗顔の後、狭いホテルの部屋のなかで軽い体操をやり、千回から千五百回の足踏みをして体調をととのえ、心気を充実させて迎えの車を待った。
こうしてホテルを出発し、午前六時半ないしは七時ごろから支援組織の職場の門前に立って出勤してくる組合員のみなさんに向かってあいさつを繰り返す。これが私の朝の主な選挙運動であった。
ところがその朝は迂闊にも寝すごしてしまったのである。候補者カーはとっくに朝の日程を終了し、今ごろは次の職場に向けて突っ走っているにちがいない。そこにこれから追いつくにはどうすればよいか。ホテルはひっそりとしていて、いつも私より早く起きて出発準備をしている本間隆君のあの大きな張りのある声も聞こえない。
いまごろ現場では、組合幹部や運動員が宣伝カーの運転手に向って「候補者はどうした。なぜ乗せて来なかったのか」と、怒鳴り散らしているであろうことを想像し、私はとにかくここを一刻も早く出なければならないと思った。
急いで着替えをしながら、「それにしても、一体ここはどこなのか」と頭をゴツゴツ叩き、ガタガタと窓を開け放った。そして外の景色をみて私は、
「おやっ」と思った。
「ここは東京だ。芝のグランド・ホテルではないか。そうだ、選挙は終わっているんだ」
完全にねぼけていたのである。いや選挙が終わっているのに、私の体は無意識のうちにまだ選挙運動を継続していたのであった。
「ああ、みんなに迷惑をかけなくてよかった」
と胸をなでおろしながら、
「当選したんだ。ついさっきまで当選祝いでもみくちゃになりながら、ここに来て午前四時半ごろ寝たんだ」
開票は前日二十三日午後六時からはじまった。私の順位は五十位前後を行ったり来たりし、結局当選のテロップがNHK・TVに出たのが、真夜中の午前二時であった。当選者五十人のうち最後から三番目にようやく決まるという、まさに薄氷を踏む思いのきわどい当選であった。
(『鷹の目』より)
<いとうせいこう注
今回から、父が昔自費出版した著作『鷹の目』を編集して足していく。
とはいえ、まずは著作冒頭そのままである。
ここから父の人生の変化が語られていく>
- 思い出すままに 5-2
-
5-2 参議院「惨酷区」
振りかえれば大変なたたかいであった。
過去に一度でも参議院全国区の選挙運動を経験した人々はいまでも言う。「郁さん、君があんな短い準備活動で当選できるなんて、どうしても考えられなかったよ」と。
あの有名な政治評論家の俵孝太郎さんも「せいぜい30万票もとればいい方ではないかとみていたよ」と言った。専門家は一様にそうみていたのであった。私自身も長い政党本部での経験から、そのことは十分すぎるほどわかっていた。
私は知名度ゼロの無名の新人候補者であった。同盟一ー産別の支援を受けたとはいえ、これら産別の組合員にとって、私の名前も経歴も何ひとつ知られていなかったのである。それが勝てたのだから奇跡に近い出来事だったと言える。
「惨酷区」とさえ呼ばれる参議院全国区のたたかいは、四七都道府県をまたにかけた壮大なたたかいである。壮大といえば聞こえはいいが、それは候補者になったものでなければ決して理解することのできない大変なたたかいである。
たしかにそうだ。例えば、一県を二日間ずつ回ったとしても三ヵ月と四日を要する。北海道から遊説を開始するとして、再び東京に戻ることのできるのは三ヵ月と五日後になるのである。しかも、一県を二日間だけという日程では、主要な都市の目抜き通りを猛スピードで素通りするだけで終わってしまうのである。事実、私の選挙運動も、支援組織の職場に五分ないしは十分間程度ずつ顔を出すという猛スピードの運動であった。知名度の高い候補者ならばそれでも当選できるであろうが、私のような知名度ゼロの新人は一県を二日間ずつ回るだけではまず当選はおぼつかない。したがって新人候補者ならば少なくとも一年半か二年、現職議員でも一年間の準備活動期間が必要だというのが全国区選挙の常識なのである。
それが私の場合は、僅か六ヶ月間の準備活動期間しかなかったのである。まさしく無暴なたたかいへの挑戦というべきであった。しかも「八〇万票」という途方もない票をめざすたたかいであった。だから立候補を決意してから選挙の終わるまで私の念頭には〝当選〟の二文字は全くなかった。私は私自身に与えられた使命にしたがって全力をつくす以外にないと思った。支援組織のひとびとの足手まといにならないように、候補者として後ろ指を指されないように、真剣に立ち向かっていこうと、ただそう心に言い続け、たたかい続けてきたのであった。
結果は六十八万三千五百二票という票を得た。私個人で獲得し得た票はそのうち三〇〇分の一にも達しないであろう。支援産別がその威信をかけて叩き出してくれた、まさしく組織の力の勝利であった。
短いようで長く、長いようで短かったこの異例のたたかいを振り返りながら思い出すままに書きつづってみたい。
- 思い出すままに 5-3
-
5-3 候補者に選ばれるまでの二十年
一体、なぜ私が参議院議員候補者として選ばれたのか。私には不思議でならないし、それだけに天命と言ったものを感じるのである。
それまで民社党が地方区で候補者を立てることのできた地方は北海道、東京、神奈川、愛知、大阪、兵庫、福岡などの大都市に限定された。時には栃木、岐阜などが加えられたが、これらの地方区で当選できる候補者は余程の知名度がなければならない。だから特定の支持母体を持たない党本部書記局員が参議院議員になろうなどとは考えも及ばないのである。
〝私もやがて表舞台で〟という強い願望をもった時代があったことも事実である。民社党の結党と同時に党本部書記局入りした私は、中央機関紙事務局長、組織局第一部長、国民運動事務局長、総務局次長、組織局次長などを歴任した。この間長野県連では私を県会候補にという話もあった。さらに五四年には長野県第三区から衆議院候補にという話もあった。この長野県第三区の場合は、すでに公認候補として確定していたG氏が、統一地方選挙直前になって突如公認辞退を申し入れてきたため、衆議院議員候補者選考委員長として候補者の発掘に四苦八苦されていた春日一幸先生が私を呼んで〝辞退させないよう説得せよ〟と厳命された、この厳命を受けて私は、G氏に何度か会ってみたがどうにもならず、公認発表の五月党大会の段階であきらめざるを得なかった。そこで春日先生は〝それでは伊藤君が次の候補だ。真剣に考えろ〟ということであった。強引な話だとは思ったが私もこれを真剣に受けとめ、親戚の人たちに集まってもらい話し合いをしたし、また支援母体というべき地区同盟の主要メンバーにも意向を打診した。しかし地区同盟はG氏の準備活動をつづけてきており、今更候補者の切りかえはむずかしいとのことであった。それではたたかいにならない。私はこの話を断念した。
一方、私は五二年以来組織局次長として和田晴生についで柳沢錬造の両組織局長の下で党勢拡大に心を砕いていた。前にも述べた通り、私はこの経過を通じて党勢拡大への確固たる視点をもつようになった。〝裏方に徹して民社党発展のために自分自身の与えられた役割を果たしていこう〟との決意となったのである。
そんな中、五四年十月選挙の勝利の余韻が未ださめやらぬ十一月の初めに、建設同盟の鈴木委員長と豊島書記長が党本部を訪ねてきた。会って話を聞くと組合の政治活動をもっと強めるために全化政連方式を採用したいとのことであった。全化政連方式というのはいわば民社党への団体加盟方式である。時宜を得た話で私はたいへん嬉しかった。
その折、鈴木委員長が来年の参議院選挙をたたかう同盟内の全国区候補は、向井長年(電力)、田淵哲也(自動車)、柄谷道一(ゼンセン)=いずれも現職=の三名に決まっているが、あとの一人がまだ決まらない、なにをもたもたしているのだろうか、早く決めてもらわないと困る、という話であった。私も全く同感であった。全国区候補はいままで同盟から四名を出してきており、同盟はまた、四名は必ず当選させることができる力をもっている。ところが三名は早くから決まっていたが、あとの一候補がなかなか決まらない。全金、造船、海員、鉄労のいずれかの組合のなかから候補者がでてくるのだろうとみられていたが、それぞれの組織に事情があってなかなかまとまらない。しかし総選挙も終わり、いよいよ来年は参議院選挙、党躍進ムードのなかで従来より少ない三名の候補で全国区選挙を迎えることは到底できない。同盟本部第四候補選考委員会(委員長前川一男氏)も年内決着をめざして精力的に動き出した。しかし同盟の組織内からは、この時点ではもはや第四候補者を出すことは断念せざるを得ない状態となり、選考委員会は最終的に党本部の佐々木委員長に選考を一任し、同委員長が決めた候補者を同盟の組織内候補とする、との結論となった。この段階でも私は最後は同盟の有力単産から候補者がでてくるに違いないと信じていた。私にお鉢が回ってこようなどとは夢にも考えていなかったのである。
カットアップ手法で読む
ウィリアム・バロウズで有名なのカットアップ手法を「連載小説空間」の小説に摘要します。
以下のフォームでパラメータを設定後、「カットアップ」ボタンをクリックすると、小説のセンテンスがランダムに組み合わされた新しい小説が生成されます。
「カットアップ」ボタンをクリックする毎に別の小説になるはずなので、表示される[TEXT版]か[HTML版]のリンクを使って保存しておくと幾つものバージョンをコレクションできます。